ダブルヒロインの華麗な弁証法‥‥韓国映画『お嬢さん』感想


(C)2016 CJ E&M CORPORATION, MOHO FILM, YONG FILM ALL RIGHTS RESERVED


原作『荊の城』(サラ・ウォーターズ)を太平洋戦争前夜の朝鮮に移し替えた設定の大胆さや、エログロ、フェティッシュの様式美や、二人の女優のベッドシーンの「過激さ」(R18指定)や、英日韓がミックスされた建築・美術の重厚さや、変態と残虐性とユーモアの同居や、韓流エンタメの底力などについては、下のテキストを始め、既にあちこちで異口同音に語られている‥‥
菊地成孔の『お嬢さん』評:エログロと歌舞伎による、恐ろしいほどのエレガンスと緻密|Real Sound|リアルサウンド 映画部
‥‥のでここでは措いといて、個人的にもっとも刺さった部分を中心に書きたい(以下ネタばれあり)。


舞台は1939年(昭和14年)の日本統治下の朝鮮。スリ集団に育てられた孤児のスッキは、広大な屋敷に幽閉されている富豪の娘・秀子の財産を狙う自称「藤原伯爵」(実は朝鮮人)の詐欺師から、結婚詐欺の片棒を担ぐよう、秀子のところにメイドとして送り込まれる*1
幼い頃に両親を亡くし、希少本コレクターの叔父・上月の支配下にある孤独で純粋で美しい秀子に、スッキは徐々に惹かれていきやがて二人は愛し合う関係に。秀子への思いと詐欺師との密約の間で揺れ始めるスッキ。


しかしその「ストーリー」は三部構成の第一部で描かれるスッキ視点でしかなく、第一部最後のどんでん返しに混乱しつつ観ることになる第二部の秀子視点の語り直しでは、「真逆の事実」(騙されていたのはスッキであり、秀子と詐欺師は共謀関係)が明らかに。視点の切り替えによる主客と構図の転換は鮮やかだ。
同時に第二部では、没落華族の日本人女性と結婚し日本名に改名している秀子の叔父・上月の極めつけの変態性・嗜虐性が、ゴージャス且つ傾いた日本趣味とともに若干の滑稽味を持って描かれる。
行きがかり上対立する立場にはあるが、「下位」にある女たちを操作、蹂躙しつつ日本という支配層から金と性と文化をかすめ取ろうとする被植民地の男という点において、上月と詐欺師は相似形だ。*2


そして第三部は、第二部の最後にまたもや訪れるどんでん返しが一部と二部のすべてに折り返される中で、それまでの騙し騙されの関係性のメタレベルにあったものが浮かび上がってくる。
愛し合う女二人が共闘して怖い男どもをまんまと‥‥という流れは『バウンド』(ウォシャウスキー兄弟、1996)と似ているが、構成に二捻りくらいある感じ。*3


戦前の朝鮮半島というコロニアルな舞台設定でありながら、政治性は抜かれているという批評をどこかで見たけれども、私はそうは感じなかった。これは単に、絢爛豪華な趣味と意匠が周到且つふんだんにまぶされた騙し合いエロチック・サスペンス(というだけ)ではない。そこに描かれた政治と性の権力関係の複雑な重層性こそが要。
当時の政治的背景の中での日本人と朝鮮人の上下関係、階級社会の主従関係が、男女の性をめぐる力関係と重なりつつ、ダイナミックに横ズレしていく、そこがこの作品の最大のヤバさであり醍醐味だ。その中で入れ替わり立ち替わり現れる「非対称性」が最後、それぞれのかたちで「対称性」へと辿り着くプロセスは、非常に弁証法的。


以上の観点からまとめてみる。
 男1:詐欺師(日本人を偽る朝鮮人)      女1:スッキ(朝鮮人
 男2:叔父の上月(日本人になった朝鮮人)   女2:秀子(日本人)
 ※>は権力関係を、〜は対等性を表す。


【第一部】
◯女1視点(テーゼ):男1・女1に騙される女2
 ▶明らかになる関係性
 ・男1 > 女1‥‥‥金品を餌にした詐欺師に共謀を持ちかけられるスッキ
 ・女2 > 女1‥‥‥日本人令嬢と朝鮮人メイドの主従関係


【第二部】
◯女2視点(アンチテーゼ):男1・女2に騙される女1
 ▶明らかになる関係性
 ・男1 > 女2‥‥‥上月からの解放を餌にした詐欺師に共謀を持ちかけられる秀子
 ・男2 > 女2‥‥‥叔父の上月と秀子の絶対的な上下関係(秀子の回想)


【第三部】
◯メタ視点(ジンテーゼ):女1・女2の共闘と、騙される男たち
 ▶明らかになる関係性
 ・女1〜女2‥‥‥「日本人>朝鮮人、男>女」の権力関係を出し抜き、結ばれる
 ・男1〜男2‥‥‥「日本人>朝鮮人、男>女」の権力関係に固着し、自滅する


終始一貫して、男も女も「女」を欲望している。
当初は「男女関係」をなぞっていたスッキと秀子のベッドシーン、つまり「男」という項を介在せねば成立しなかった女同士の性愛は、最後に「男」のいない形で成就する。遡ればそれは、第一部でのバスルームのシーンの、エロスといたわりの混合体に回帰したとも言える。
一方、女への「侵入」を拒まれたばかりか裏を掻かれた男たちは、一気に力を失い滅び去る。*4


物語は、二人の女の「性の対称性」が文字通りのビジュアルで示されて幕を閉じる。これは、男たちが構築してきた「支配する者とされる者」の抜き差しならない膠着的な非対称性を逃れていこうとする、「男いらない」系ダブルヒロインもののファンタジーだ。
そのファンタジー(夢物語)が、翌年から始まる太平洋戦争とその5年後の終結をどうやって生き延びたかは、観客の想像力に委ねられている。



●付記
ところで全然関係なくもない話だが、祖父は戦前、朝鮮に日本語教師として派遣されていた際に、朝鮮人の富豪から娘(私の母)を養女にくれないかと言われてその気になりかけたことがある。
「私、朝鮮の人になっていたかもしれない」と母は言った - Ohnoblog2
日本名に改名し、日本人の妻や娘をもつことでさまざまな利を得ようとした日本統治下の朝鮮人富裕層。そんな歴史のひとこまが、自分自身の出生に関わったかもしれないと思うと、存在の偶然性にちょっと鳥肌。

*1:ここで登場する女中頭の佐々木夫人、まるでヒッチコックの『レベッカ』のダンヴァース夫人のような不気味さと貫禄。無地の着物に刺繍の帯も印象に残る。あとどうでもいいことだが、スッキが若い頃の三田寛子に、秀子が若い頃の浅野温子に、秀子の少女時代が子どもの頃の綾瀬はるか(見たことないけど)に似ている。

*2:朗読会での秀子の大袈裟すぎる日本髪も、日本文化への上月の捻れた「憧れ」が膨らんだものに見える。搾取の構造に刻まれた、猥雑な欲望の数々。その「被害者」となって自死した叔母の苦しみを、秀子は内面化している。上月がいつも嵌めている黒の革手袋(蹂躙の徴)を朗読会で自分も嵌め、その手で自らの首を締め続ける所作は、SM小説の朗読演技と見せて、叔母の死を再演しているのだ。だがその僅かな「抵抗」すら、変態紳士たちの欲望に消費される。

*3:韓国人俳優による日本語のたどたどしさが最初少し気になったが、「伯爵」を名乗る詐欺師は下層から這い上がってきた朝鮮人、富豪の上月も日本人になりたくて日本人女性と結婚した朝鮮人、秀子は5歳で朝鮮に来たという設定でそれなりに納得(自殺する叔母は日本育ちのはずなのでもう少し発音が‥‥と思うところはあったけど)。

*4:追記:この構図は、去年『ダブルヒロインの「距離」』というトークイベントで話した「一見男性が関与しているように見えても、その目の届かないところ、力の及ばないところで、女同士の関係性が構築されていく近年のダブルヒロインもの」と一致する。参照:http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20160919/p1