「外部」をめざす内在的絵画論 ––––『無くならない アートとデザインの間』を読んで


変わったタイトルである。「無くならない」が大きく表示されてタイトルっぽく、「アートとデザインの間」がサブタイトルの扱い。
帯には、「20世紀の思想だったデザインやカウンターとしてのアートがある使命を終えようとしている。」の文言。「はじめに」では、アートとデザインの「ジャンル中間領域」の話でも、「両者の融合」ということでもないとある。
読み進めていくとわかるが、この「間」とは、「アート」として成立する以前、「デザイン」と呼ばれる以前の、名付け得ない行為を指している。今あるようなかたちのアートやデザインがなくなっても、その行為というか営みだけは「無くならない」ということだ。
「描く」という、人間の「無くならない」営みについて、「アートやデザイン以前」から根源的に考えようとする、非常に奥行きの深い内容だった。


著者の佐藤直樹は『WIRED』日本版創刊からアートディレクターとして関わり、長年デザイン分野の第一線で活動して来た人だが、5年ほど前から突然木炭画を描き始め、なぜかそれが止まらなくなっている‥‥‥というのは、テレビでも紹介されているのを見た。シナベニヤの板を何枚も壁に立てかけ、植物の絵を描きまくっている光景が映っていた。
2013年に東京電機大跡地の壁に描いた『そこに生えている』(3.6×9.5m)は話題を呼び、今月30日から6月11日までは@3331 Art Chiyodaにて新作「植物立像図」(2.4×1.2mが26枚)が発表される。会期中にそれは、150メートルもの壁を埋めていくという。
刊行されてすぐに本書を読んだのは、晶文社のサイトに連載されていた『絵画の入門』が面白かったことと、デザイン畑の人が木炭画を突然描き始めて止まらないというエピソードに惹かれたからだ。




4部構成になっている。「 I アートとデザインの間には深くて暗い川がある」では、アートディレクターという肩書きを一旦降ろし、アートでもデザインでもない「描く」という行為に向き合うという宣言がなされている。
その間に、経済を基盤とするデザイン、「それ自体への定義づけを拒んでいる」「他者依存」的なアートへの懐疑の言葉が差し挟まれる。

 個々の営みを存続させるためには、「アート」や「デザイン」といった大括りな業界に属することをよしとせず、そのような概念自体を疑い、個別に具体的な立ち位置を明確化するしかない。インデペンデントであり続けるしかないのです。(p.51)

 わたしたちの一人一人が必ず死を迎えるように、「アート」も「デザイン」もいずれ死を迎えることになるのではないか。だとすると、そのような概念に合わせて活動することよりも、目の前で起こっている「生きている」ことに対する感応をどれだけ大事にできるかでしかないでしょう。何かを「越えていく」にはそれしかないだろうと、非常に単純なところから考えるようになったのです。(p.53)



 こうして、著者が自ら設定する「 II 絵画の入門」に続くわけだが、もちろん一般的な「入門書」めいたことが書いてあるのではない。目次を見てもわかるように、絵画とは入門できるものなのか、すべきものなのか、入門とは何をどうすることか、そもそも「絵画」と呼ばれているものはどういうものかといった、「門」のずっとずっと手前のところから考察が始まる。
この「そこからですか?」感が凄い。そんなのわかり切ってるよねとすっ飛ばすところが一切ない。一からものを考えるとはこういうことだ。


「自由に描かれた絵」とは何か。それは「ただの絵」ではないか。じゃあとりあえず素直に描いてみよう、ということでやってみるものの、自分で「おもしろい」と思えるものは出てこない。そこで筆者は、自分の「画歴」を辿り直していく。
幼少時、気づいた時には既に絵を描いていたから「最初の起点」は捉えられないとしつつも、考察は何度も、その見えない起点に立ち戻ろうとしている。「自己実現」や「承認欲求」とは異なる動機に支えられていたはずの起点。そこから始めねばならないという筆者の強い意思が感じられる。


評論文とは異なる、目の前の人に語りかけるような易しい語り口は、率直且つ丁寧。筆者の思考は、深い森の中の小径を一歩一歩辿るようにして進んでいく。立ち止まったり行きつ戻りつしたり、さっきと同じ交差点を通ったり、時々見晴らしの良い場所に出たり。
常に「それはどういうことなのだろう」と愚直なまでに問う、その探求の歩みは、極めて繊細で内在的だ。「描く」ことについて、子どものような素朴な問いを抱えつつ、さまざまな角度からより根源的なところに言葉で触れようとし続ける緊張感。


そうした考察の展開に従って、見開き左ページの端に筆者が模写した絵が次々現れる。この鉛筆画(たぶん)の線が、なんともいい味わい。
オリジナルは、子どもの頃の絵やマンガ、ショーヴェ洞窟の壁画をはじめ、円山応挙長沢芦雪高橋由一奥村土牛長新太片山健菅原道真丸木スマ、大道アヤなど、ジャンルの括りはない。大文字の美術史だけを見ていては出てこないラインナップ。赤瀬川原平横尾忠則水木しげるも重要な参照項として登場。
「画歴」辿り直しの間に挟まれるそれら固有名詞をめぐる想念によって、筆者の思い描く「絵画」なるものがうっすらと見えてくるようだ。


「定義づけ」できないものとなったアート、「自由に描く」ことすら様式化し、私たちは承認欲求だけを抱えて現在に至る‥‥との認識の中で、筆者は「忘我のための型」という概念に辿り着く。

 忘我の反対にあるのは自我や自己の意識です。これが世界を固定してしまっているのでしょう。だとしたら、これを外す必要があります。おそらく、型はそのためにこそ必要なのです。というより、人は何らかの型を通してこそ外からの力に感応することができる。降りて来るものを待つこともできる。ところが、自我や自己が主体化すると媒介の通路が塞がってしまいます。(p.162)

 現代の美術や絵画は、形式的には近代絵画を乗り越えたところにあるということになっているのだと思います。しかし、わたし(たち)はいったい近代絵画の何を乗り越えたのでしょうか。近代絵画に向き合ってきた人と比して、わたし(たち)にできていることとは何でしょう。何でもできるようになってなどいないんじゃないか。いやむしろ、以前はできていたことまでもできなくなっているだけなのではないのか。(p.168)


 
カバーを取ると植物の木炭画が現れる。



さて、「 III デザインを考えない」は、グラフィック社『デザインのひきだし』に連載された文章が元になっている。各回のタイトルが「〜デザインを考えない」。普通なら「〜デザインを考える」と言うところ。
これは、従来的なデザイン思考(もっと言えばデザイン業界思考)をやめてみよう、〜について直接考えてみようということだ。あとがきによれば「五年半におよぶ悩みの記述」とのことだが、さまざまなトピックを通して、その後に書かれた「絵画の入門」の姿勢が既に垣間見える。東京オリンピックのエンブレム問題についての指摘が鋭い。
デザインはモダニズムを体現するもので、モダニズムは今、グローバリズムローカリズムかという話になっているが、それは同じ流れの別の貌‥‥というあたりは、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』の中の状況整理とも響き合うところとして読んだ。この章も筆者による挿絵がついていて楽しい。


最後の「 IV 行為としての芸術について」は対談及び鼎談(小崎哲也、大友良英岸野雄一細馬宏通)。アート、デザイン、音楽から内容は多岐に渡ってとても面白い。そして、筆者がいかにして突然絵を描き出したのか、なぜ止められなくなっているのかが、対話の中でより具体的且つなまなましく浮かび上がってきている。


モダニズムの始まりから現在まで、デザインもアートも「前のものを乗り越えて新しいものを提示する」という宿命から逃れることはなかった。それは両者が、資本主義経済及び近代の理念と深く結び付いてきたからだ。そして21世紀に入り、そろそろどんづまり感があらわになってきたことは、本書で繰返し述べられている。
筆者が今「描く」ことを通して向き合っているのは、資本主義経済及び近代の理念の「外部」にある、身体、土俗、無意識といったものだろう。
つまり本書は単に内在的絵画論、デザイン論であるだけではない。「このどんづまりをグローバリズムローカリズムかで右往左往せずにいかに生きていくか」という、非常にアクチュアルな命題に触れている。そのように読まれるべき本だと思う。


無くならない: アートとデザインの間

無くならない: アートとデザインの間



◆付記
私事だが、「絵を描く人々」という連載エッセイを、もう12回ほどWEBスナイパーという18禁サイトで書いている。
本書を読んでいて共感するところは多かったが、同時にその極めて内在的で当事者性の強い考察が、自分の言葉の届いていない部分にスッポリと嵌り込んだ感覚も覚えた。「描く」ことについて考察していても、私は「絵を描く人々」を観察する立場であって、今のところ描く立場(連載の挿絵は描いてるけど)にはいないからだろう。
アーティストをやめた時、私は素朴に絵を描く立場に立ち返らなかった。もともと画家ではなかった(立体インスタレーション系)こともあったが、アートに替わるものは自分にとっては言葉しかなかったからだった。でも一方で皮肉なことに、「書く人」になってから、身体、土俗、無意識といった本質的に言語化し得ないものを、自分を深いところで規定するものとして考えざるを得なくなったように思う。