時間について

内田樹の『街場の教育論』の中に、音楽について記した箇所がある。
大学の教養課程を論じるにあたって言及している孔子の「君子の六芸」(礼・楽・射・御・書・数)の中の「楽」が、音楽。これに似た内容は内田ブログでも見た気がするので、例によって繰返しあちこちで書いていることなのだと思うが、面白いので引用しよう。

 孔子は音楽を愛した。政敵に追われて放浪しているときも、琴を弾じるのを止めなかった。「楽」は時間意識を涵養するものです。豊かな時間意識を持っていない人間には音楽は鑑賞できません。楽器の演奏も曲の鑑賞もできない。というのは、音楽とは「もう消えてしまった音」がまだ聞こえて、「まだ聞こえない音」がもう聞こえているという、過去と未来への拡がりの中に身を置かないと経験できないものだからです。
 単音の音楽というものはありえません。リズムもメロディも、その楽音に「先行する楽音」と「後続する楽音」の織りなす関係の中でしか把持されません。そして、「先行する楽音」も「後続する楽音」も論理的に言えば、今、ここでは聞こえていない。今、ここには存在しないのです。今ここには存在しないものとの関係を維持していなければ、音楽というものは演奏することも聞き取ることもできないのです。[引用者注:この文には強調点が付く]
 音楽を聴くとき、それまで聴いた先行する楽章のすべての楽音が「今でも聞こえる」人、これから続くすべての楽章のすべての楽音が「もう聞こえる」人は、今ここで聞こえている単独の音(というのは原理的にはありえないのですが、仮説として)を深く味わうことができます。
 はじめて聴く曲であっても、それまでの楽音がずっと記憶されて、聞こえている人は、これから続くはずの楽想がある程度予測できる。その期待にぴたりと添った音が聞こえれば快感が訪れるし、期待から少しずれればそこにグルーヴ感が生じる。
(p.84、85)


これは、時間に関わる表現すべてに言えることではないだろうか。演劇も映画も(そこでの緩急のリズムも物語の展開も)、今見ている場面に「先行する場面」と「後続する場面」の織りなす関係の中でしか把持されない、という意味で。
初めて見る作品なら、「先行する場面」から今進行しつつある場面までの流れによって、「後続する場面」を想像・期待する。期待通りで気持ち良いこともあれば、期待を裏切られて気持ち良いこともある。あまりに期待通りばかりだとつまらないし、裏切りの連続だけでも疲れる。
「先行する場面」の因果律や諸条件にほどほどに寄り添いつつ、その因果律や諸条件のちょっとした乱れが、想像しえなかった「後続する場面」に無駄なく有機的に繋がっていたのだと後でわかった時に、「面白い」「やられたなぁ」と思う。
そして、そのシーンを導き出すために周到且つ丹念に積み重ねられた場面(時間)を反芻し、「そういうことだったのか」「もう一回観て(聴いて)みよう」となる。この後戻り不可能な素晴らしい時間の流れを、もう一回最初から味わい直したい。いや何度でも味わい直したい。
音楽でも演劇でも映画でも「もう一回」がある時、その作品は受け手の「時間意識」を豊富に刺激している。


(回想シーンが混じるとかで)物語の展開がリニアな時間の流れにそのまま沿っていなくても、その作品の中で積み重なっていく「もう消えてしまった場面」と「まだ現前していない場面」の関係性が重要なのは変わらない。
リニアな時間の流れに沿わない形で制作されたシリーズものと言えば、『スター・ウォーズ』だ。シリーズが完結している現在は、物語内の時間に沿って観ることもできるが、やはり制作順(劇場公開順)に観る方が私は好きだ。
ジェダイの復讐(帰還)』までの三作を観たその後に『ファントム・メナス』を観ると、「この純粋そのもののあどけないアナキンが、ダークサイドに堕ちてあのダースベイダーになってしまうとは‥‥」というしみじみとした感慨を得ることができる。



ところで、「君子の六芸」には美術がない。「礼」は祖霊を祀る儀礼、「射」は弓、「御」は馬を御することで共に武術。「書」「数」は読み書き算盤だ。西洋のリベラル・アーツ(文法、修辞学、論理学、算術、幾何学天文学、音楽)にも、音楽があって美術はない。
美術artの語源はテクネー=技術で、近代になるまで芸術家は職人と明確に分かれていなかった。音楽を理解したり楽器を奏でたりすることより、モノ作りは一段下に見られていただろう。
描かれたものは欲望の対象であり俗情を刺激するという意味で絵画は「ポルノグラフィ」(貴族の時代の裸体画はポルノの役割を果たした)だから、そもそも「教養」科目には入れてもらえない。宗教(キリスト教)の啓蒙の道具であっても同じだ。もっと遡れば、岩壁に何かを刻み付けたり石を彫ったものは、呪術に結び付く。
性欲も信仰も呪いも、「教養」とはかけ離れた位置にある。そしてたぶん「教養」よりも起源が古い。


美術には時間がない。
現代アートでは映像作品やパフォーマンス、観客参加型の作品など、そこに時間の経過が含まれているのもあるが、基本的には無時間性を前提にしている。絵画がその代表だ。絵画の鑑賞において「今ここには存在しないもの」はない。すべてが瞬時に一望できる。すべてが一時で把握可能。
何よりも、絵画(美術)は音楽や演劇や映画と違い、物体である。物は空間を占有し、誰かの所有物となる。以下、拙書より。

「物」としてのアート作品は、当然のことながらそれを飾る場、空間を必要とする。本やCDやDVDのように、まとめて棚につっこんでおくわけにはいかない。アート作品が美しく展示される美術館の贅沢な空間は、昔で言えば貴族の広大な屋敷や教会や聖堂である。広大な空間(土地)を所有することは、いつの時代にも権力の象徴だった。有史以来一度として絶えたことのない土地の境界線を巡るあらゆる争いは、この空間獲得と物を所有することへの欲望から起こっている。美術というジャンルは、その中に宿命的に組み込まれているのである。
(『アーティスト症候群』より)


空間を制した者が勝者となる長い時代を経て、今はいかにして他人の時間を支配し得るかが要となっている。
あらゆるエンターティメント、サービス産業はもちろん、モノを売る商売でもまずは消費者の限られた時間をいかにそこに浪費させるか(CMの回数・時間から店舗の滞在時間を延ばすことまで)に力が傾注される。消費者の方も、「どんなモノを所有するか」より、「何に時間を使うか」に関心を向けるようになった。
そんな中で美術は依然として、物として所有可能な存在形式とアートの(根拠なき)神話化によって、富裕層や資産家の間でやりとりされる超高額マネーの代替物となっている。モノより時間の趨勢の中で、それは音楽や映像などに比較しても、ますます融通のきかない表現ジャンルとなっていくようにも見える。


だが裾野に目を転じてみると、美術のプリミティヴな現れ、たとえば子どもの絵は、私にはるか彼方の古い起源のようなものを思い起させる。それは、性欲のようなものだったり、信仰のようなものだったり、呪いのようなものだったりしている。
そんなふうに、絵を描く中で欲望を解放していく幼い子どもにとっては、絵そのものより「絵を描いている時間」が重要だ。クレパスで画用紙に描線を次々と重ねていく時、子どもは既に描いた「先行する色と形」から、これから描く「後続する色と形」への、後戻り不可能な時間を生きている。「今、ここには存在しないもの」との関係を手探りで探している。
それは、自分の中に湧き上がってくる聴いたことのない音楽に耳を澄ましているような状態かもしれない。



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