『ソフィ・カル –––– 最後のとき/最初のとき』を見て

ソフィ・カルがまた豊田市美術館で見られると知った時から、ずっと楽しみにしていた。
前回見たのは12年前の2003年。カルが一年に渡って23人の盲目の人たちにインタビューを行った上で制作した、<盲目の人々>という写真とテキストを組み合わせたシリーズ作品だ。
一人ひとりに「自分にとって美しいものは何か」と尋ねた上で、その人の肖像写真、質問に答えて語った言葉、そしてカルが彼/彼女の言葉から類推して写した写真の3点が1セットとなっている。


生まれつき視覚をもたない人々にとってある意味非常に残酷な質問に、盲目の人々が実にさまざまなものを挙げて、しかも具体的に答えているのが印象的だった。一番頭に焼きついているのは最初に展示されていた、
「私が見たもっとも美しいものは、海です。視界の果てまで広がる海です」
という男性の答え。
その人は生まれつきの盲人なのだから海は「見た」ことがないはずだ。「視界」も持っていないのだ。それでもその人の頭の中に「海」というものがあって、「美しい」と認識されている。


彼の言葉の横には、カルが撮影した海の写真が掛けられている。彼女はどんな気持ちでそれを撮ったのだろう。盲目の人の「海」と、目の前の海は全然違うものかもしれない。その違いすら確認しようがない。相手は目が見えないのだから、写真を「見せる」こともできない。
盲目の人々と彼らの語る言葉との関係、言葉と写真との関係、それらは作り手のカルにも観る者にも、確かめようのない曖昧なものだ。
一連の作品は、個々の「美」の認識、概念がいかにバラバラで、「見ること」がいかにあやふやで、コミュニケーションを通して何かを共有することがいかに難しいかを露にしていくものだった。



今回、豊田市美のリニューアルオープンを飾る『ソフィ・カル –––– 最後のとき/最初のとき』(12月6日まで)では、<盲目の人々>のシリーズに加え、その後に制作された<最後に見たもの>、<海を見る>が展示されている(東京では2011年に原美術館で展示)。
<盲目の人々>の最初の発表は1986年。それから24年経って、イスタンブールに長期滞在中に構想されたのが、<最後に見たもの>と<海を見る>。ここに登場するのは、すべてイスタンブールでカルが出会った人々だ。


<最後に見たもの>のシリーズでは、中途で視覚を失った人に「あなたが最後に見たものは何か」を尋ね、<盲目の人々>と同じ手法で作品化している。
失明の原因はもちろん人によって異なる。事故、暴力、病気、医療ミス、そして原因不明。目に見える世界と突然永遠に別れることになったその「最後のとき」が、さまざまな言葉遣いで語られている。
それを追体験するかのように、カルが撮った写真が並ぶが、再現不可能と判断したのか、「最後のとき」について語る当事者の身振りを写したものもある。
「見ること」はどこまでも個人的なことでしかない。その人にしか見えなかった光景、その人にしか感じられなかった視覚の変容を、他の人が知ることはできない。ここでも、コミュニケーションの困難さが浮き彫りとなっていると感じた。


最後の展示室にある<海を見る>は、ヴィデオ・インスタレーションだ。トルコ内陸部の出身でイスタンブールに住みながら海を見たことのない貧しい人々がいると知ったカルが、彼らを海岸に連れていって撮影した映像群。
展示室には波が浜辺に打ち寄せる音が響いている。波打ち際に立ち、広大な海を眺める一人一人の後ろ姿。しばらくしてその人はカメラの方を向く。初めて海を見た人の眼差しが映し出される。
眩しそうな顔つきの人、次第に微笑みを浮かべる人、難しい顔の人、涙を流している人‥‥。その眼の中に浮んでいるのが何であるか探ろうとしているかのように、カメラは彼/彼女の顔を注視し続ける。


「美」について私たちの見解はバラバラだ。「見ること」はどこまでも個人的なことだ。さらに出自や宗教、環境や体験の違いによって、私たちのものを見る眼には異なるフィルターがかかる。それは世界に多様性を生む一方で、さまざまな壁も作り出す。
その壁の前に、この<海を見る>はそっと置かれているかのようだ。


ずっと想像していた何かを初めて見た時。認識や概念が眼の前のものによって覆され、更新された時。視覚の初体験の驚きを私たちは知っている。特に海というものは「視界のはてまで広がる」大きさだけでなく、波の音、潮の香り、足元の砂など五感を刺激することで、多くの人にとって忘れられない新世界の体験となる。
そうした誰もが味わう「最初のとき」を媒介として、遠いところにいる見知らぬ誰かとも、大切なものを共有できるかもしれない。いや、「できるかもしれない」と、「できないかもしれない」のぎりぎりの、波打ち際のところに立っていよう –––– 。
「見ること」をめぐる困難な試みの最後にソフィ・カルが辿り着いたのは、私たちには手に負えないほど複雑になってしまったコミュニケーション環境の中での、初々しく新しい関係性への微かな期待のように思えた。



今回の展覧会はとにかく展示計画が見事で、観客を静かな思索に誘う美しい空間作りに成功していた。とりわけ最後の部屋がすばらしい。ソファに座ってゆっくり鑑賞することもできるし、観るのに疲れたら波の音だけ聴いていてもいいし、ずっとそこにいたい気分になる空間だった。
(余談だが展示室を出てきた時、これまでに覚えたことのない感動で涙がこみ上げてきて驚いた。展覧会に来て泣いたことはない。歳を取ったということだろうか‥‥)


「ソフィ・カル –––– 最後のとき/最初のとき 」豊田市美術館


朝日新聞・東海日曜版+Cという紙面に短いレビューを書いている(掲載は11月15日の予定)。