マッドマックスシリーズはだいたい血と砂と鉄とスピードを味わう映画だと思っているのだけど、「怒りのデス・ロード」はそれが今まで以上のスケールとハイテンションで描かれあらゆるシーンが決まり過ぎなほど美しく決まり(オレンジと青が目に焼きつく。あの沼地と烏と身障者のような人物の歩くシーンとかもっと見たい)、全編目と耳の大ご馳走(毎日は嫌だが2年に一回くらい食いたい)だったので、この夏、劇場を出ながら「はー、おもろかったー」とひとりごちたのだが、ネットで上がってくるレビューを見ていたら、やたらとフェミニズムという言葉が目につき、そういうメッセージ性が込められているところが素晴らしい的な意見も散見して、「え、そうなの」という感じになり、もしかして私は映像と音響に圧倒されて重要なものを見逃していたのかなと、DVDがレンタルになるや否や借りてきてまた観たのだ。
やっぱり血と砂と鉄とスピードを味わう快作だった。
たしかに今までのシリーズと違いマックスがやや脇に引いて、強い女をヒロインとし、強者に支配されている弱者の男と女たちが結束して闘い勝利する、という話型は、フェミニズムにセンシティブな「ポリティカルコレクトネス」なものなんだろう。アナ雪もマレフィセントもそうだった。つまりハリウッドの最近の流行だ。
あの展開や結末だって、マックス、フュリオサ、ニュークスといった主要な役柄が出揃った時点で、なんとなくわかっていたことだ。「行きて帰りし物語」として普通に予定調和(いい意味で)。
なのでストーリーについては、よくできてるなーと思いつつ、新味を取り入れた熟練の職人芸に感心する、という感じだった。
フェミニズム的な面であえて言えば、この作品は結果的に『エイリアン3』(デヴィッド・フィンチャー監督、1992)へのアンサー作品になっているとは感じる。
ヒロインが丸坊主、男たちも丸坊主という表面点な類似だけでなく、最初は反目し合う女と弱者の男が、強大な敵を相手に団結して闘うという話の枠組みがそっくりだ。
『エイリアン3』で闘う相手は直接的にはエイリアンだが、最終的にはそれを「生物兵器」として捕獲せんと目論む強者の男たちになる。しかし闘いは敗北し、ヒロインは強者の野望を砕くために自死を余儀なくされる。リプリーが溶鉱炉に落ちていくラストシーンは、まさに「救世主」の犠牲的最期であり、救いのない結末となっている。
この闘う女を死なせる暗い作品について、かつて内田樹は『女は何を欲望するか』で、アメリカ社会に急速に浸透したフェミニズムに一見迎合的な話型を取ってはいるが、実はそれへの無意識の反発が作り手の中にあるのではないか、といった若干穿った分析をしていた(こちらで紹介)。
それから13年経ち、弱者男女が手を組んで強者を倒し、強いヒロインは「救世主だ!」と歓呼で迎えられるようになった。リプリーの恨みはフュリオサによって晴らされた。
女を忌み嫌い最後まで生き残った囚人モースは、途中で改心して女たちと共闘し玉砕するニュークスとなった。
専門家の意見を仰いで、フェミニズムもエンタメに意識的に取り込まれるまでになったと。
しかし、『エイリアン3』と「怒りのデス・ロード」はそもそも、作品の質感というか手触りが相当違う。
『エイリアン3』では弱者と強者の間に立たされる刑務所所長や副官、医師などはそれなりに内面がある感じで、囚人たちも一応は描き分けられていたし、マイケル・ビショップは悪魔のように賢く手強かった。つまり闘い(フェミニズム)の困難さが、ある程度重層的に描かれていた。
一方、「怒りのデス・ロード」での人間関係はもっと図式的だ。全員、見事なまでにストックキャラクター。血と砂と鉄とスピードのバイオレンスアクションだからそこは図式的でいいのだが、イモータン・ジョーとか、他にも悪役同盟みたいに出てくる強者側の男が、ほとんどコメディリリーフなんじゃないかと思えるほどの滑稽さだ。負けるわけがないだろう、こんな奴らに。
つまり物語という点から言うと、『エイリアン3』がフェミニズムの悲劇なのに対し、「怒りのデス・ロード」はフェミニズムのコメディだ。
欧米先進国で「常識」となったフェミニズムを一見賞揚するかの話型を取ってはいるが、実はそれをお笑いにして消費してみたいと作り手は無意識のうちに思っていたのではないか‥‥ってくらいのアクション・コメディ。
映画がフェミニズムから影響を受けているというより、フェミニズムが映画に(血と砂と鉄とスピードに)呑み込まれたのだ。