あいちトリエンナーレ2019開催中、朝日新聞東海版朝刊(2019年9月23日)に掲載された拙文です。半年以上経ってますが、芸術と政治について触れたテキストとして上げておきます。
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グローバルな問題も様々なかたちで扱われている現代美術の展示で、とりわけ強い印象を残すアジアの作家の作品を二点あげたい。
一つは愛知県美術館に展示されているユェン・グァンミンの<<日常演習>>。サイレンが鳴り響く中、ドローンで撮影された台湾の軍事演習時の人の気配のない市街が、延々と大スクリーンに映し出される。「非常時」が当たり前のように埋め込まれた日常の光景を俯瞰で見せるシンプルな手法は、スペクタクル感に満ちた大きな効果を生んでいる。
もう一点は、豊田市の喜楽亭を使ったホー・ツーニェンの<<旅館アポリア>>。小津安二郎の映画、神風特攻隊の回想、京都学派と海軍、横山隆一の戦意発揚アニメなどで構成された映像インスタレーションに、時折、建物を揺るがすような振動が入る。虚構・過去・現在が重層するこの作品のタイトル「アポリア」(難題)は、戦争における日本人の被害者性と加害者性とを、私たちが同時に見つめることの中にあるだろう。
これらの作品は、政治的かつ歴史的なモチーフを大胆に使いつつも、わかりやすい言語的メッセージには落とし込まず、観る者の感覚を揺さぶり宙づりにする。展示が中止された「表現の不自由展・その後」の、歴史を扱ったいくつかの作品とでは、なぜ受け取り方に差が生まれるのか。
一つには、ネットに流通した不自由展の作品情報が「わかりやすかった」ことがあると思われる。実際には複雑な意味や背景があったとしても、展示においてはシンプルな言語的メッセージに還元されやすい面があったために、短絡的な反応を引き起こした。
「わかりやすい」より「わかりにくい」(宙づりにする)方が良いとは、一概には言えない。ただ一般的に、言語的メッセージの比重が大きくなれば、芸術表現であることの必然性は薄れる。芸術はまず知覚に働きかけ、個々の美的判断や情動を刺激するものだ。それら非言語的メッセージの効果が、作品の言語的メッセージと思われるものにも様々な作用を及ぼす中で、鑑賞体験は作られる。
今回の紛糾の根底にあった差別と歴史認識の問題は、精密な言葉を通じて把握し、理解しなければならないことである。そうした極めて重要な問題を個々の美的判断や情動が関与する芸術作品で提示すること、直視するべき現実の諸相を芸術鑑賞体験の中で受け取ることの意味は、改めて深く問われるべきだろう。
そう考えると、不自由展以外の、国家や戦争、民族やジェンダーなどを扱う作品にも、本質的には同じことが言えるのではないかという疑問が浮かぶ。そもそも、なぜ芸術作品において、現代の様々な問題を考えるのか。根本的な解決や認識の共有が現実にはなかなか困難であるそれらの問題を、芸術において考えることで最終的に回帰してくるのは、やはりあらゆる意味での政治であり、言葉ではないだろうか。
ところで、あいちトリエンナーレとは別に、「なごやトリエンナーレ」という、「超芸術」を掲げるオルタナティブな動きが一部で注目されている。芸文センターの脇で騒音を散布するゲリラ活動で引き起こされたトラブルの結果、逮捕者まで出したことで話題となったが、興味深いのは偶然も含めたすべての行為を、「声明文」などの確信犯的な言葉に置き換えていることだ。政治や社会を芸術において考えることの「アポリア」、そこで循環し続ける現代芸術の状況を、外部からアイロニーをもって相対化しようとしていると言えるかもしれない。
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