J.ボードリヤールの『芸術の陰謀』と画家の逆ギレ

芸術の陰謀―消費社会と現代アート

芸術の陰謀―消費社会と現代アート


1996年、『リベラシオン』紙上に J.ボードリヤールが発表した「芸術の陰謀」というテキストは、「世界中で数多くの言語に翻訳され」「特にフランスでは相当激烈な反応を引き起こした」ということだが、読んでみたらところどころ今書きつつある本の原稿の内容と被っていてなんか微妙にショック(笑)(でもめげずに書く。超ドメスティック・バージョンで)。
日本ではこれまで、ボードリヤールの芸術関連の批評がほとんど論考の対象として取り上げられてこなかった。これも15年経った今頃やっと邦訳が出ているし。


収録されている問題のテキスト「芸術の陰謀」は、13ページ弱と短い。これが議論の的となって受けたインタビューがその後に4本、94年から95年にかけて雑誌に掲載された『美の幻想と幻滅』というテキストが一本、訳者によるキーワード解説、全体の解説と続いている。90年代のアート状況を背景にしたボードリヤールの芸術批評を概観できるコンパクトな作り。


以下、「芸術の陰謀」より抜粋。

 芸術自体の消滅と芸術の対象の消滅を演じてみせる芸術、それはまだ [石を黄金に変えるような] 重要な仕事だった。しかし現実を横取りする [芸術が現実を表象することをやめて、現実そのものになる] ことで芸術自体を無限にリサイクルするという戦略に賭けるような芸術は、重要だといえるだろうか? ところが、現代アートの主要な部分は、まさにこの戦略を用いているのだ。つまり、価値やイデオロギーとしてはとるにたらない、凡庸で、ゴミのような現実を横取りするのである。こうした無数のインスタレーションやパフォーマンスの中にあるのは、ものごとの現状との妥協、それと同時に、過去の美術史のあらゆる形態との妥協というゲームにすぎない。
 それは、凡庸で無価値なことがオリジナリティだという価値観と、倒錯的な美的快楽の享受の告白なのだ。もちろんこの種の凡庸さの主張はすべて、芸術のアイロニー的な第二段階へと移行することで、芸術を昇華しているつもりになっている。だが、第二段階だろうと第一段階だろうと、そんなことは結局無価値で無内容な発想だ。
(p.10〜11)


初めの方で「重要な仕事」と言われているのは、ウォーホルのことである。彼は「無内容と無意味をひとつの出来事にして、その出来事をイメージの宿命的な戦略に変貌させた」が、他のアート(主に80年代以降のアメリカのネオ・ジオやシミュレーショニズムを指していると思われる)については、訳者の言葉を借りれば、

「芸術が無価値・無内容であるはずがない」という一般人の素朴な思い込みを前提にしたうえで、あえて「芸術は無価値・無内容だ」と言い張る(そう思わせるような意味不明で「難解な」作品を提示する)ことで、芸術(現代アート)は、それ自体が「無価値・無内容」になってしまったという真実を「嘘」として流通させる「陰謀」に成功した、とJBは皮肉をこめて述べたのだった。
(p.187~188)


更に、現代アート作品の評価は実質、市場取引価格にかかっているが、ここでも「そんなに高価な作品が「無意味・無内容」であるはずがない、そこには「何か」があるに違いない」と一般人に信じ込ませる二重の陰謀が働いていると。これら一連の仕組みをボードリヤールは、アート業界の「インサイダー取引」と呼ぶ。
そしてこれは芸術だけではなく、「政治も経済も情報も、同じ共犯関係と「消費者」の側の同じあきらめを利用している」(p.16)と言う。


これはヒステリックな反応を巻き起こしただろう。特に80年代のボードリヤールのシミュレーション理論に強い影響を受けてきたアーティスト達からは。
80年代当時、アメリカの若いアーティストらに祭りあげられていたJB本人は、「シミュレーショニズムの運動は存在不可能だ。なぜならシミュラークルは表象されることができないからだ」(オリジナル不在のコピーというそれ自体が「現実」にとって代わる新たなリアリティだから)と突き放したというが、結果としてあまり効果はなかったようである。
アメリカのシミュレーショニズムを日本に紹介したのは、椹木野衣のデビュー作『シミュレーショニズム - ハウス・ミュージックと盗用芸術』(1991/洋泉社)だが、あの本をバイブルのように持ち歩いている美大生や若いアーティストを90年代を通してしばしば見たものだ。
こうしてボードリヤールのシミュレーション理論は本人の意に反して若干都合良く誤解されたまま、アートから映画(『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟など)まで表現者達の制作の指標となっていった。
(‥‥などとエラそうに書いているが、当時は私も誤解していたアーティストの一人であった(爆)



発売されて一ヶ月半、誰かアート関係の人がレビューを上げていないかなと検索していたら、今日の朝日新聞朝刊の書評欄で横尾忠則が取り上げていることがわかったので、コンビニに新聞を買いに行く(新聞を購読しなくなってから10年‥‥)。
しかし横尾忠則ボードリヤールをなぁ。ピンとこない。まあムカついてるだろうね。


読んだ。予想通り反発していた。

[‥‥] ウォーホルの出現と彼の死を同時代的に体感した実作家である者にとっては、ボードリヤールの言う「芸術の陰謀」がすでに多くの識者の言説とさほど差異のないことに感じる。かえってアメリカの芸術家のアートビジネスに対するフランス人特有のコンプレックスを感じるが、それとて日本人も例外ではない。

「アートで金儲けするなんて良くない」「芸術はビジネスではない」と言ってる「識者」はいるのかもしれないが、JBはそんな単純なことは言ってない。あのテキストから15年後の今は「すでに」「さほど差異のない」芸術批評があるとするなら(私でも書こうとするくらいだからあるだろう)、そのことはボードリヤールの先駆性を物語るものでしかない。
この後、ウォーホルについて12行も書いているのだが、JBの鋭利なウォーホル評価を読み取ってないような今更な擁護ぶり。もしかして、ウォーホルが槍玉に上げられていると誤読していたのかもしれない。

 著者はあくまでも人類学的な視点からウォーホルを観察し、「無価値・無内容」という疑惑に疑問を呈しながら、誰もが「芸術の陰謀」に加担しているという。それがどうしたと言いたい。

ろくに反論しないまま逆ギレである。書評で「それがどうした」って開き直っていいなら何でも書ける。
それに「「無価値・無内容」という疑惑に疑問を呈し」というのは違う。
現代アートはあえて「無価値・無内容」を演じる身振りで、本当は「無価値・無内容」ではないんじゃないか、何かあるんじゃないかと一般人に思わせているけど、実際ほんとに「無価値・無内容」だよ?と言っているのである。
たぶんこの人は『象徴交換と死』も『シミュラークルとシミュレーション』も『完全犯罪』も読んではいないだろう(そもそも出だしから、「「消費社会と現代アート」という副題は1960年代のポップアートを語る上で最も的確なフレーズである」。ウォーホルは度々参照項にしているにせよ、大半は80年代以降のアート状況について書いてあるのだが)。だったとしても、内容を把握した上の反論になっていないのが困る。

「ウォーホルとともに、芸術の危機が実質的に終わりを告げた」とボードリヤールは宣言し、その先には美的な幻想がはたして存在するのだろうかと、何も示唆しないで結ぶ。

これは『美の幻想と幻滅』というテキストを指しているが、そこで「結」んではいないのは明らか。まだまだ続いている。最後に、「シミュラークルの美的形態」が消滅するとともに、「近代以降の西欧文化に先立つ諸文化の、あの儀礼と魔術的幻灯劇(ファンタスマゴリー)の場面に合流することになるのかもしれない。」と、ちゃんと示唆して結んでいるではないか(その後、近代以降の西欧文化なんか知らないよと言わんばかりのアートが中国の新世代から爆発的に出てきたので、あながち外れているわけでもない)。
もちろんアートの世界の人ではないボードリヤールにしてみれば、能天気に現代アート再生の希望の言葉など書く必然性はなかっただろう。

新しいものの価値の探求という近代的手段を超えた創造の地平に立つ時、実作者にとって幕は降ろされるべきではない。終わりは「始まり」の始まりだ。

もはや何を言っているのだかよくわからない。
ボードリヤールは別に「芸術は終わった」なんて言ってない。「芸術は終わった、芸術は死んだと、人びとが私にいわせることを、私は望みはしない。芸術は、死なない。もはや存在しないのだから。芸術は、死にはしない。ありすぎて困るほどなのだから」(p.50)とは言っているが。この皮肉が横尾忠則には通じていない公算が高い。

作品が「凡庸」であろうがなかろうが、未来は芸術家にとっては無制限の聖域である。

やはり何を言っているのだかわからないが、信仰告白をしているということだけは伝わってきた。
全体では「実作者」という言葉が二回出てくるところが興味深い。特に「実」が。こっちは「実体」のある作品を「実作」している芸術家なのだぞ、「実体」のない言葉を操ってる学者とは違うぞ、という気負いが滲み出ている。
まあ横尾忠則はわりとナイーブで直球の人だと私は思っているので、正直と言えば正直な反応なのかもしれない。