「冬ソナ」から「セカチュー」へ

中年女の厳然たる事実

茶店で女性セブンを読んでいたら、「冬ソナ」について作家の岩井志麻子がコメントしていた。曰く、「あれは、処女が書いた(註:原作者は女性二人らしい)精液の薄そうな男の話」。
人気俳優をつかまえてまず精液の濃度に言及するところが、岩井志麻子である。首から上のことばかり言ってる私なんか、まだまだだ。


さてそういう「処女が書いた(以下略)」に、主として中年の女が熱中したのはなぜかといえば、もちろんセックスのことを考えなくていいから。「冬ソナ」にどっぷりハマるタイプの女性は、性欲はあるのだが、現実的なセックスのことを考えるのはいやなのだと思う。


女は歳をとると性的魅力が乏しくなっていくので、「女」とは認知されないようになり、既婚未婚に限らず、恋愛、セックスの機会も減少していく。超熟女ブームが世の中を席巻しない限り(たぶんしない)、これは厳然たる事実である。
だからばりばりのセックス込みの恋愛ものは、それが感動的であればあるだけ、「厳然たる事実」を重く受け止める中年女の、嫉妬と羨望と焦燥感を掻き立ててしまう。


しかし、もしそれが純愛ものであれば、話は別。性的描写の希薄さが物語のお約束上許されるので、感動的であればあるだけ、現実(もう「女」とは看做されないこの体‥‥)から逃げられることになる。
ばかりか、セックスなんて下世話な欲望を超えた純愛に涙できる実はピュアな私、という都合のいい自己錯誤までできる。

カップルで行くロケ海岸

「ピュア」。これが「イノセント」「ナイーブ」と並んで、今あらゆるところで安売りされているイメージである。安売りによってほとんど暴利を貪っている。
そして「冬ソナ」に続いて、今度は若い女をわんわん泣かせているのが、言わずとしれた「世界の中心で、愛をさけぶ」。
小説も読んでないし映画も見ていないので、内容について何も言う資格はないが、興味深いのはこの奇妙な「純愛ブーム」だ。「冬ソナ」と違って、女ばかりでなく若い男まで巻き込んでいるらしい。


セックスを回避して非現実的な純愛に閉じこもりたいのは、中年女性だけかと思っていたら若者まで?と最初に思った。
しかし、若者がセックスのことをまったく考えないなんてありえない。そこで抑圧された性欲はどこにいくのか。本当に純愛物語に涙することで昇華されるのか。されるわけがなかろうと思う。


映画ロケ地となった香川県庵治町の海岸防波堤には、休みともなれば若者達が押し掛けている模様だ。テレビのニュースで見ていたら、男女のカップルか女性同士で、男同士はいないという(当たり前である)。
女同士の心情は、「冬ソナ」の中年女性と一緒だろう。違うのは若いということだけだ。若くても、「恋愛とかセックスみたいなどろどろしたもの」を回避したいという、ピュア志向のナルシー女は結構いる。自分の性欲とちゃんと向き合わないツケは、そのうち回ってくるだろう。


ではカップルは? その防波堤に行って、来たカップルをすべてリサーチしてみたいような気もした。
交際期間がどのくらいかとか、セックスはもうしたかとか、どちらが行こうと誘ったかとか、今夜はどこにどういう形で泊まるのかとか、聞いてみたい項目がいくつかある。カップルの顔も見てみたい。


四国は遠過ぎるので行かないが、このロケ地参りは、おそらく女の子先導である。
純愛物語に感動した女の子がカレシに「セカチュー」を読ませ、一緒に映画を見、ロケ地に行ってみたいと言うパターン。男女共に泣いちゃってその勢いで来たとか、男の方が女を引っ張ってきたみたいな特殊なケースも中にはあるかもしれないが、女の子が事実上の主導権を握っているのが多いに違いない。

嘘でもいいから

そういう女の子の心情とは、第一に「悲劇のヒロイン」になってみたい、であろう。
防波堤を歩きながら、まずお互い初々しく想い合っていた頃の物語の恋人たちに、自分たちをなぞらえる。同時に自分は、セックスもせぬままいずれ死んでしまうヒロインである。
恋人に心から嘆き悲しまれ、オーストラリアかどっかにわざわざ散骨までしに行かれ、「愛をさけ」ばれる。そしていつまでも想われ悲しまれる。そういう「失われた永遠の恋人(処女)」「悲劇のヒロイン」として、自分を見立ててもらわねばならないのだ。
誰に? 四国は庵治町くんだりまで来て、下心満開かもしれない相手の男に。


二人で恋愛映画のロケ地に来る程度には仲がいい、という現実。恋人同士なら別に珍しくもないその現実に、「処女のまま死んだ"穢れ"のない恋人が、永久に心に刻みつけられる」という非現実を重ねて、今のこの現実以上ではない自分の「価値」を底上げする。
物語の中の恋人の喪失=「過去」は、ここでは「未来」として仮定されている。あくまでも仮定。


あたしだって早死にするかも。
あなたはセックスもしないで(あるいはあんまりしないで、あるいは結婚もしないで)、あたしを永久に失うかも。
その時いくら泣いてももう遅いかも。
だから今やさしくしとかないと後悔するかも。
でもそれ今晩セックスするってこととは違うかも。だってあたしたちの理想は、純愛の関係なんだし‥‥。


「ピュア」で「イノセント」な女の子というものは、かくも複雑な手続きを経て、男に自分への欲望を駆り立てさせたいのである(知っていたか、男の子よ)。

ここが世界の中心

女の子の第二の心情は、 この恋愛が「真実」であると何かに証明してもらいたいという欲求であろう。力強く証明してくれそうなのが、純愛物語が演じられた場所だった。
しかしその場所はほんとは「セカチュー」の中にしかないのであって、庵治町はただのロケ地である。しかも最近は人がわんさか押し寄せて、情緒も何もない。おそらく、そんなとこでもわざわざ行ってみたいのだ。そして「真実」みたいな匂いを、自分達の関係に付けたい。付けたら何か安心が得られるかもしれないから。


そこまでしなければならないなら、別れれば?というのは、何もわかっていない「大人」の意見である。こういうオプションをひっつけて「かたち」を整えていくのが、若いもんの、いや若い女の恋愛なのだ。
だいたい他にたいして面白いことがなかったら、恋愛(物語)にハマる以外に何にハマれと言うのか。引きこもって、手首でも切れと言うのか。「もう「女」とは看做されないこの体」になる前に、「ピュアな恋の思い出」の一つや二つもないと浮かばれない。そのように、女の子達は悟ろうとしている。


「純愛ブーム」を支える若い女カップル、非カップル問わず)は、性欲をどこかに置き忘れて純愛に向っているのではない。セックス抜きの純愛物語、その新鮮かつ「本物」に思えるフレームを借りて初めて、安心して男の方に向き合えるのだ。
そこでは互いの欲望を醜く晒しあうことなく、気持ちのいい涙を流すことができるだろう。でも、泣いてる自分がキレイかどうかはしっかりチェックしなければ。当然である。今は二人のいるところが「世界の中心」なのだから。


二人のいるところ以外の「世界」は見たくない。ここにだけ「真実」が欲しい。
それは、嫉妬や羨望や焦燥感、ましてや下心とは無縁の「きれいな真実」であってほしい。
とりあえず今だけは。


これが、「純愛ブーム」を支える若い女のメンタリティではなかろうか。