純愛の袋小路

嘘をつく

相手に愛されるために嘘をつくということが、しばしばある。女がしている化粧なんてその最たるものである。上げ底ブラだってそうだ。すべては男に愛されたいがためである。それもまずは見かけから。化粧だけでは済まず整形しないと、という女もいる。『ビューティコロシアム』というテレビ番組には、「きれいになって恋がしたい」ために顔を変える女がよく出ていた。


男の場合、整形に踏み切る人は少ないが、知的上げ底というのはある。上げ底ブーツみたいなもので、何かと頭が良さそうなフリをするのである。相手が自分より頭がいいと使えない手ではあるが、知的な男に弱い女はわりあい多い。
相手の好みを綿密にリサーチして、あたかも偶然ぴったり趣味が合っているかのような演出をする、という手もある。たとえば彼女の好きな音楽がクラシックなら、一ヶ月くらい朝から晩までクラシック漬けになってでも、クラシック趣味な男になろうとする。
こういうことはどちらかというと女がやりがちで、男は自分の趣味に女を巻き込もうとするもののようだが、女心になんとかつけ入りたいという悲願をもった男は、たぶんやるのである。


性格良くふるまうというのは、もうほとんどすべての人がしている。好かれたいのだからそれは当然だ。たいして面白くない話にも、「ウンウン、それで?」と身を乗り出して聞いてあげないと。
それが相手の理想の男性像なら、そうふるまわねばなるまい。
恋愛では、最初のツカミのためにこのような上げ底をする。立派な詐術である。
だからバレた場合が問題。愛(されたかった)ゆえということで大目に見てもらえるか、詐欺師呼ばわりされるか。それは、相手の性格やそれまでの関係の密度にもよるだろう。


そんな小手先に頼らず、金持ちのイケメンに生まれ変われたら、簡単に高嶺の花の美女を何人でも恋人にできるのになあと、自分の中身にわりと自信のある男は妄想したりするかもしれない。
中身は自分のままで、「金持ち」「イケメン」という要素だけを付加したい。中身をそっくり変えるのは、自分じゃなくなるから嫌だ。

純愛の徹底?

ところが、行くところまで行く純愛では、とんでもないことが起こる。やるとなったら、徹底してやる純愛道。徹底した結果、道を踏み外す人もいるのである。
たとえば、韓国映画純愛中毒』に登場するテジンが、その徹底の人である(以下ネタバレあり)。

純愛中毒

純愛中毒


カーレーサーのテジンは、家具職人の兄ホジンとその妻ウンスと暮らしている。兄弟仲は良く兄夫婦もラブラブ、絵に描いたような幸福な家族と言っていい。そこに悲劇が訪れ、レースでテジンは大事故に遭い、ほぼ同時刻にホジンも車の事故に遭遇、二人とも意識不明の重体となる。一年後に昏睡状態から醒めたテジンには、なぜかホジンが乗り移っていた。
ホジンが憑依したかのように穏やかな性格となり、料理を作り家具製作に精を出し、自分はホジンだと言い張るテジンに、最初は混乱していたウンスも、何らかの神秘的な作用でテジンの肉体にホジンの心が宿ったのではないかと疑うようになる。
やがて、ホジンとウンスしか知らないことまでテジンが克明に話すに至って、ついに彼はホジンだと彼女は確信する。見かけはテジンだが中身はホジン。きっとホジンの肉体から魂が彷徨い出て、テジンのからだに宿ったんだわ。私に逢うために‥‥。
こうして二人は結ばれ、昏睡状態だったホジンは脳死を認定される。


となるとまるで、死んだ恋人が幽霊となって女に会いにきた 『ゴースト/ニューヨークの幻』みたいな純愛ファンタジーだが、すべてはホジンになりすましたテジンの芝居であった。


そのことをウンスは最後に、壁の穴に隠された写真とテジンの日記で知る。写真にあったのは、彼女が知らないうちにテジンが撮影していたウンスの姿。ウンスがホジンからもらったラブレターも、愛の言葉もふるまいも、すべて弟テジンのオリジナルであった。
つまりテジンは、ロクサーヌに恋していながら告白できず、ハンサムだが頭の弱いクリスチャンのために恋文を代筆し、恋のコーチを引き受けたシラノ・ド・ベルジュラックみたいなものだった(もっとも不細工なシラノと違って、テジン演じるイ・ビョンホンは「韓国四天王」の一人のイケメン俳優であるが)。

物語の世界へ

テジンはどこまでいっても、ウンスに片思いである。彼女と兄の理想的な関係は、彼にとっては決して手に入らない、ただ眺めているしかない「物語の世界」だ。
しかしそもそも、その「物語」のシナリオを書いたのは自分である。僕の愛の言葉にウンスは陥落したのだ(相手はホジンだったけど)。僕はホジンよりずっと深くウンスを愛しているという自信がある。だから、自分がホジンでなくテジンであるばかりに、ウンスと結ばれなかったという現実の方が間違っている。
だったらいっそ自分を捨てて、ホジンに「なる」しかない。そして「物語」の中に入ってしまえばいいではないか。ホジンが回復不可能となった今、自分が彼の位置を占めて何が悪いことがあろうか。
こうしてテジンは「純愛」のために、兄を裏切り愛する女を欺いた。


太陽がいっぱい』では、友人の財産と女を手に入れるため殺人が行われ、完全犯罪だったはずのそれが発覚して、やがてアラン・ドロンは罰せられるであろうという結末だった。
テジンは殺人こそしないが、将来を嘱望されるカーレーサーとしての「自分」を永久に葬り去る。ここまで来ると、もはや自己犠牲とは言い難い。
しかしウンスはテジンを責めないし、気づいたことも口にしないのだ。お腹にテジンの子どももいる今となっては、永久に騙されてやろうと腹を括ったのだろう。
かといってそれは、ウンスが信じきっていたかつてのようなホジンとの関係とは似て非なるものだから、彼女は一生苦しむことになるかもしれない。


愛されようとする時、人はまず外見を何とかしたりコミュニケーション能力を高めようとしたりする。それで努力して駄目なら、普通は諦める。
しかしどうしても諦められなかったテジンは道を踏み外し、ウンスはそれによって身動きできなくなってしまった。
純愛の袋小路で、「男女関係を結ぶこと」の宿命的な困難に彼らは出会っている。