お墓開き

初めての儀式

この間、夫の両親が墓を作った。二人とも七十歳を越しているので、そろそろお墓のことが心配になってきたようだ。葬式をしてお墓参りをするのは息子(夫)だから、本当は彼がその心配をしないといけないのだろうが、いつまでたってもその気配がまったくないので、当てにするのは諦めてさっさと自分たちで用意したわけである。


そのお墓開きというか除幕式みたいなことをやるので来てくれと言われ、夫と行ってきた。
住宅街の中にあるお寺の横の小さな墓地である。通路を挟みながら1m20cm四方くらいに区画が均等に仕切られて、まだ四つか五つの墓が建っているだけ。宅地造成したばかりの土地に建て売りの小さな家がまばらに建っている、といった風情である。
出来立ての義父と義母の墓には白い布がぐるぐるに巻き付けられていて、墓石屋の人が準備をしていた。水を汲み花を供え、果物やお菓子や乾物を載せたお盆を置くなどしていたら、義母が突然「あっ、線香を忘れた!」と言い、義父がまた家まで取りにいく。


最後に巻き付けた布を取り、ようやく準備が整って、隣の寺で待機していたお坊さんに来てもらう。お坊さんがお経をあげている後ろで、私達は数珠を手にして神妙に立っている。
お墓開きというのは初めての体験なので、お経の合間のお坊さんのふるまいが、私には珍しい。
榊の葉のついた小枝を水に浸して墓にピシャピシャと振りかけたり(清めているのだろう)、その枝で墓に刻まれた文字をなぞったり(これは○○家の墓であると宣言しているのだろう)、「ダー!」「ダー!」と奇声を発して枝を墓の左右の虚空めがけて振り下ろしたり(たぶん‥‥悪霊を祓っているのだろう)。
その「ダー!」というのがあまりに素っ頓狂だったので、可笑しくて吹き出しそうになるのをぐっと堪えていたら体が小刻みに震えてしまい、義母に不審な目で見られた。
儀式が終わると、義父も義母も晴れ晴れとした顔で「ごくろうさん」と言って帰って行った。

生者のため

「ったく墓石屋も坊主も、ボロ儲けだよなあ」
と、帰りの車の中で夫が言った。
「原価十万くらいの墓石を十倍以上にふっかけやがって」
それがどうしても必要だという心理を逆手にとった商売は、いくつもある。葬儀や結婚式は、その最たるものだ。なければないで済んでしまうものだが済まない人が多く、滅多にないことなのでそこでケチるのはどうも‥‥という人々の心理があって、結構なお金を取れるわけである。


「死んだらあのお墓に入れてほしい?」
「別に。どうでもいい」
「でもお墓参りとかしてほしいでしょ」
「死んだら意識はないんだよ。どうしてもらっても俺に関係ないじゃないか」
夫は徹底して霊魂の存在を認めない人である。
「おまえの好きにしろ」
「好きにしろって言われたって。今のうちに決めといてよ」
「そんじゃ骨を木曽川に撒いてくれ。どうせ墓の守なんか、おまえにできんだろ」
「‥‥じゃあ、そういうことで」


歳は同じだが、夫は私より先に死ぬ気でいるようだ。私たちには子どもがいないので、私も自分が死んだあとのことはどうでもいいやと思っている。お経は死者のためでなく生者のためにあるという話が前コメント欄で出たが、お墓もきっとそういうものだろう。
自分が死んだら、誰かが毎年お墓に来て花を供え手を合わせて生前を偲んでほしい‥‥と思う人はたぶん多いのだろう。それは人情だ。そしてそういうかたちを作って死者を偲びたいと思うのも、生きている人の人情だ。


私は祖父の墓参りも祖母の墓参りも、一周忌くらいしか行ったことがない。が、生前のことや亡くなった当時のことはよく思い出す。
私の頭の隅には墓地があり、ちゃんと小さい四つの墓石が並んでいるので、いつでも手を合わせることができる(父方の祖母はクリスチャンだったので、十字架だ)。私の頭の中で、お墓は一家に一つではなく、一人に一つ。


そういうお墓が、この先少しずつ増えていくのだろうと思うと、少し淋しい。