『小悪魔な女になる方法』はなぜ売れたのか

悪女、熟練者、天然

最近、「小悪魔」流行りである。
「小悪魔」でネット検索すると三百万件以上もヒットし、「小悪魔な女になって男心をドウタラしよう」という内容のサイトが目白押しである。書店のモテ本コーナーでも、2年ほど前から「小悪魔」という言葉を散見するようになった。
知らない人にはまったくどうでもいいことだが、趣味で"モテ業界"をウォッチングしていると、ついにこんなものがモテとして流行るようになったかという感慨を抱く。


思えば「モテる女」は、今一つイメージが漠然としていた。
清潔感があって可愛くて明るくて朗らかで気配り上手で、賢いが賢さは表に出さず会話のセンスがあり、適度にセクシーで男には上手に甘え女らしい立ち振る舞いができ‥‥とモテの条件を並べてみても、何のイメージも結ばない。あえて言うとすれば、モーニングショーの女性キャスターみたいな平凡な感じ。
だいたいモテるファッションやヘアと言ったって、人によって似合う似合わないがあるのだから、いつも白やピンク系のノースリーブのワンピース着て鎖骨のあたりで揺れるウェーブにしてればいいというものでもない。そういう「最初のデート」スタイルというのは、万人向けのストライクゾーンなだけに飽きられやすい。「清潔感があって‥‥」以降の女のジェンダーも、それさえ身につければ他の女との差別化を図れるというものでもない。


つまりモテというのは「こうしておけば、大多数の男に嫌われるということはないでしょう」という漠然とした安全策だった。
一応どうすれば男ウケする好印象を作れるのかはわかったけど、誰も彼もそれをやり出したらモテも糞もなくなる。清楚なワンピースにセミロングで何を話してもニコニコ対応する女なんてつまらん、という男も結構いる。
そこに出てきたのが、「小悪魔」という具体的なイメージだ。


「小悪魔な女」とはどういう女であろうか。
一言で言うと、男の心を翻弄する女である。翻弄してやろうと考えているわけではないが、マイペースで気侭に行動する結果、そうなってしまう女のことを、「小悪魔」と言う。
小悪魔に計算はない。だから本人は気づかないうちに、複数の男の心を翻弄していたりする。一人の男にしかアピールしないのは小悪魔ではなく、たぶん小悪魔のフリをしてその男を狙っている普通の女だ。
小悪魔の特徴は、美人でもナイスバディでもなく、コケットリーである。コケットリーとは、色っぽいこと、艶かしいこと、媚態。
小悪魔は男に媚態を示すとされているわけだが、それも実は天然だ。暑いのでブラウスの第三ボタンまで外してパタパタやっていたり、男と喋っている最中考え事をして自然に唇を尖らせていたり、電車の中で眠くなってきたのでちょっと連れの男の肩にもたれてみたりする。
つまり単に無防備でスキがあって気まぐれな態度を、男の方が勝手に「媚態を示された」と考える。


男は女に媚態を示されると、それがよほどタイプではない限り、あいつは俺に気があるのかなと好意的に解釈してしまうらしい(「俺は違う」って人はいいです)。
しかし女はその男に特別気があるわけではない。好きは好きだけど恋人になるのはめんどくさい程度に思っている。だからその時はスキだらけだったが、次に会った時は変にしゃきっとしてたりして、男の期待を裏切る。
「なんだ気まぐれだったのか‥‥」と男が軽く落胆していると、「朝まで飲みたい。つきあって」とか天真爛漫な顔で言い出す。単に朝まで誰かと飲みたい気分なだけだったりするが、男は、「おお、やはり」などと勘違いする。それで家まで送っていってあわよくばと思っていると、「ありがと。チュッ」と頬にキスされておしまい。酔っぱらっていたので思わずキスしてしまったと。
その繰り返しで男は混乱し、それが天然なのか意図した媚態なのかわからなくなり、わからないがゆえに四六時中気になって仕方がなく、「あいつは小悪魔だ」ということになる。
男はその女を、自分の心をかき乱し誘惑する存在だと捉えるから、そう呼ぶのである。しかし客観的事実としてあるのは、女の気まぐれと男の過剰反応だけ。
つまり「小悪魔」という概念は、夢見る男の願望が女に投影された結果、生まれたものである。


これとは違い、計算して男の心を弄び、うろたえたり悩んだりするのを見て面白がり、自分に夢中にさせようと冷静かつ周到に画策するのは、「悪女」である。
悪女は男に自分を追いかけさせることを目標としているが、男の手には決して落ちない。そういう女に破滅寸前まで追い込まれて、初めて男は「あいつは悪女だった」と気づく。まあ気づいてもその時はもう手遅れになっていることが多い。手遅れまでいかない場合、どんなハニートラップを仕掛けられても、男は女を「悪女」だとは思わない。思いたくないからだ。
そこで「あいつは小悪魔だ」と自分を納得させるわけだが、男が小悪魔だと思っているのは、現実には三種類ある。
小悪魔を装うことに長けている男をいたぶりたい悪女と、小悪魔演技でもって男の恋人になろうとしている熟練の女と、若いがゆえに無防備でユルい天然女。男の夢見る女を演じることが天才的にうまい女も少なくない現在、天然の小悪魔に遭遇する確率は低い。


小悪魔とされるのはせいぜい21、2歳までだが、それ以降になると「魔性の女」と名付けられる。これも男が作り出した女のイメージだ。
どっちにしても女は「魔」なものとされており、正真正銘の「悪」と断定するに至るのは相当な痛手を負わされてからである。

147の熟練ワザ

男は「小悪魔」を小説や映画で理想的に描き、洗練された小悪魔像を作り上げてきた。男にモテたい女、他の女と違うアプローチをしようとする女は、男の描いた小悪魔像を見てそのコケティッシュな魅力を学習した。
天然の小悪魔より、小悪魔エッセンスを凝縮してうまく演じられた小悪魔の方が、より一層「小悪魔らしく」見えるものである。


そうした小悪魔の代名詞と言えば、往年のフランス女優ブリジット・バルドー(BB)の名が挙がる。BBは十六歳の時ロジェ・バディム監督に見出され、彼との生活で小悪魔となるべく徹底指導を受けた。家の中では四六時中すっぱだかでいろと指示されたという話は有名である。男の目を常に意識することによって、自然とコケットリーを身につけられるようになるからということだ。観客を魅了する小悪魔的媚態を体得するにも、修行が必要なのである。
日本の女優だと元祖・小悪魔は加賀まりこ。彼女は十代の頃からの夜遊びで知り合った各界の金持ち文化人に可愛がられた。その御陰で非常に早熟となり、小生意気な口のきけるおじさんキラーの小悪魔女優に成長した。
彼女達に共通していたのは、ファニーフェイスと赤ちゃんのような無邪気さとエロスの同居。もちろん天分もあったかもしれない。しかしプロの女優たるもの、自分がどういうイメージで売れていくのか知れば、小悪魔的魅力や演技力を意識して磨こうとしたであろう。


小悪魔は50年代後半〜60年代に流行り、プロトタイプができあがり、主に中年男性にウケる若い女性像として生き延びてきた。
それは、誰でもやろうとしてやれるようなものではなかった。男の目を気にしてないかのような天真爛漫さと、男の目を意識しているかのような媚態とを両立しなければならないのである。シロウトには難しい。
しかし、何でもかんでもノウハウ化すれば売れるというのが、今日の時代の趨勢だ。それに便乗し、一般向けモテのテクニックというかたちで広がったのが、最近の小悪魔ブームである。


ブームのきっかけを作ったのは、蝶々という銀座のホステスの書いた『銀座ホステス作家の実践テク147 小悪魔な女になる方法』という本。サブタイトルは「ミステリアスなイイ女は、あらゆる男を夢中にさせる」。
『愛されてお金持ちになる魔法の言葉』(こちらの記事参照)とタメを張れるような言葉遣いの剥き出し感に思わず後ずさりしたくなるが、2004年の6月に出て一年の間に25万部を売った。蝶々は「小悪魔」になりたい女子のカリスマとなり、銀座ホステスの美貌もあいまって女性雑誌にひっぱりだこ。
その後小悪魔関連のモテ本を次々書いているが、amazonのレビューを見る限りはどれもこれも似たような内容で、最もヒットした『小悪魔な女になる方法』一冊読めば充分のようだ。


蝶々の書いているところによれば、高校時代、本命の彼氏がいるにも関わらずそれを隠して、校内一のオシドリカップルを別れさせるほど男を自分に夢中にさせたという経験から、自分に小悪魔の素質があることを自覚したという。

あのときのワクワク感と、先輩が、だんだんこちらになびいてくる期間の、ゲーム感覚のスリリングな高揚感は、今でもハッキリ覚えている。

男を落として自分のものにするまでが楽しかった。そのためにあの手この手を使ったと。
そして銀座のホステスになってお水業界を経験してから、どういうテクで男が「小悪魔な女」に夢中になるかよーくわかったので、それを伝授してあげましょうということだ。つまり蝶々は、小悪魔演技に長けた熟練の女である。


しかし147もいったいどんな「実践テク」が書いてあるのだろう(もうそれを使う年齢ではないが興味津々)。そう思って読んでいったら、内容的にはちょっと当てが外れた。


1章「男ゴコロをそそる女になる」は、男好きであることを肯定し、自分のアピールポイントを知り、女の武器を有効利用して甘え上手になれといったことである。別に今さら言われなくても、モテるためにそれが必要だという情報は、かなり前から広く行き渡っている。雑誌のモテ特集などにも散々書いてあるようなことで、新鮮味がない。
2章「ビジュアルでオンナ感を磨いて、男を虜にする」では、美肌に勝るものはないとか、メークは濃過ぎない方がいいとか、髪はいつもキレイにしとけとか、着物で女っぷりを上げろとか、ノースリーブを着て先の尖った靴を穿けとか、いつも楽天的な女でいろとか、これも全然新鮮味がない。全部、モテたいと思う女が既にやっていそうなことである。
3章「とびきりの男に狙いをつける」では、王子様幻想を捨て、まず自分に寄ってくる男とつきあってみろ、そのためにはあちこち出かけろと焚き付け、目を見た時しっかり見返してこないような男はダメ、合コンでいい男は見つからないなど、これまた「そりゃまあ基本でしょ」というようなことばかりが書いてある。
4章「デートで男を値踏みする」、5章「狙った男は必ず落とす」、6章「かけひきで男を手玉にとる」、7章「カラダで男を骨抜きにする」。見出しは大変挑戦的だが、やはり内容はありきたりだ。
最初のデートでは仕切るな、男の話を喜んで聞け、送ってくれない男は諦めろ、押しつけがましくなるな、男は目線攻撃に弱い、軽いボディタッチはありだ、「素」は小出しにしろ、馴れ馴れしくしてはサッと引け、ギャップのある女になれ、かわいいワガママを言え、重いノリはいかん、ベッドでは主導権を男に預けろ、カラダの相性だけにこだわるな、終わったあとは多くを語るな‥‥etc。


男をなんとか籠絡したいと思った女なら、その手の「ミステリアスなイイ女」は「半分はやりました」と言いそうなことである。
籠絡に何回もトライした女なら、「ほとんど全部やりました」。たまにはパンツを穿くな? ええそれもやりましたとも。なんかもっと小悪魔っぽい変わった手はないのか。
いや、変わり過ぎていては男が引いてしまう。「あらゆる男を夢中にさせる」には、上記のことをきちんと遂行し、その姿勢をキープすることが重要だ。


8章以降は、ストーカー対策や三角関係対策、修羅場のくぐり抜け方、別れる時の心構えなどについてである。
そこで一貫していることは、自分の欲望に正直に生き、常識は気にせず、修羅場にも取り乱さず、相手に決定的なダメージは与えず、相手を怨まず未練を残さず、過去の男の悪口は言わず、凛とした潔い女であれということである。恋愛はすべて自己責任。普通にまともなことが書いてある。
だがここまで何もかもきっちりはっきりしていると、もはや「小悪魔」ではない。酸いも甘いも噛み分けた大人の女だ。

「女」という職業

『小悪魔な女になる方法』において、「小悪魔」という言葉はキャッチーな看板である。「モテ」や「愛される」になかった"特殊"なイメージがウリなのである。
そのイメージで一見すごいテクニックが余すところなく語られているような錯覚を覚えるが、蝶々自身のモテ自慢が結構混じっているのを除けば、実質的にはおそらくそこらのモテ本と大差ないはずだ。すべては男と出会ってスムースに恋愛に移行し、姫のように大切に扱ってもらい、しばらく相手を繋ぎ止めておくための小ワザの数々である。


もしこの本が「なるほど!」という目からウロコの印象を読者に与えたとしたら、男を籠絡することについて、女の側から小気味良いほど遠慮のない書き方がされている点にある。

男ほど、自尊心が高くて、リスペクトと賞賛、そしてスリルを求めている生き物はいない。小悪魔たるもの、その心理につけこまなくてどうする。

まあそういうことは誰でも何となく感じているとは言え、このように直裁に言われると、「そうですよね。さすが銀座のホステス」と重要な教えを乞うた気になった女性は多いのかもしれない。
むしろ銀座のホステスと言うより、置屋のやり手婆さんが新米芸者に、「男というものはね、こうこう、こういうものなのさ。だから男のタマを握るには、自分から追いかけちゃいけないよ。一回押したら向うがちょっかい出してくるまで我慢してお待ち。そしたら後はこっちのもんさね」とか何とか、手練手管を事細かに教え諭しているのに近い。


値踏みし落とし手玉にし骨抜きにする、獲物を狙うハンターのような攻略姿勢。「恋愛で男に振り回されるな。それより振り回してやれ。男なんてチョロいもんよ!」と言わんばかりの戦闘的な、ある意味極めて「男らしい」勢い。
新鮮と言えば、この強気であけすけな攻めのスタンスであろう。つまりこの本の最大の特徴は、蝶々という書き手のキャラの「男らしさ」にある。
蝶々は読者に、快楽主義的な女になり、あらゆるテクニックで男を翻弄して、男の持てる資源を最大限に引き出し、恋を思う存分楽しめと啓蒙している。そこで「小悪魔」とは、「恋愛で常に主導権を握り、男に対して優位なポジションを確保できる女」のことである。
そうなると、なぜ『小悪魔な女になる方法』が売れたのかがわかってくる。この本のヒットは、自分が恋愛でうまくいかなかったのは、主導権をとれなかったからだと思っている女が多いということを意味しているのだ。
私は相手に与え過ぎてしまった、追いかけ過ぎてしまった、あまりにもバカ正直に対応し過ぎてしまった。その結果、男につけこまれていた。もう同じ失敗はしたくない。男に振り回されるくらいなら手玉にとって振り回してやる。そう思っている人にとって、この本は力強い勇気づけ、いや景気づけにはなろう。


しかし恋をした時、常に相手より優位に立とうとする人はいない。優位に立とう、そして相手をコントロールしようという計算は、醒めているから出てくるものである。それはゲームではあるだろうが、そんな画策や小細工が馬鹿馬鹿しくなり、すべてをさらけ出してそれで承認されたいという、理不尽とも言える感情が喚起されるのが、恋愛である。
もちろんすべてをさらけ出すことは、なかなかできない。だから恋愛をする人は、まず相手を喜ばそうとする。それが失敗に終わったとしたら、おそらく「私はここまでしているんだから愛されて当然」という傲慢と、「これに見合うものを与えて」という貪欲を、相手に嗅ぎ取られたからであろう。
与えたら与えてほしい気持ちは誰にでもあるが、自分が与えたのと同じ量と質を受け取れるとは限らない。恋愛で完全なギブアンドテイクというものはない。恋愛の快楽と苦しみは、テイクの保証されないギブにある。


男に振り回されてきた女にも、それはわかっている。しかし、自分が失敗した原因を見つめることは苦しいことである。原因を追っていけば、どこかで自分の傲慢さと貪欲さに出会うことになるかもしれない。
男の持てる資源(経済力、知性、強さ、やさしさ、愛情etc)を十二分に受け取った実感が持てないのに、恋愛なんかしてたって仕方がないと思った計算高い自分。確実なリターンを得ようと、石橋を叩き過ぎて壊してしまった自分。
そんな醜い自分の姿は見たくないものだ。それより絶対に失敗しない方法を知りたい。だから女は「小悪魔」のノウハウに走ることで、「負け」を取り戻そうとする。


だが、なぜそうまでして、恋愛で挽回しようとするのか。なぜ恋愛で「帳尻」を合わせないでは、気が済まないのか。
それは、恋愛が女の人生の中核だという確信が、どこかにあるからではないか。仕事で思い通りに成功できる人はわずかである。頑張ればそれに見合ったリターンがあるという幻想は、なくなった。苦労してやっと男並み、あるいは男より上に立てた時には、回りの男の恋愛対象から外されていた。
結局、男と同じ土俵で頑張っても、多くの女は「帳尻」が合わないと思っている。だったら「女」という資源を最大限に生かして、男から受け取れるだけ受け取った方がいい。男>女の権力関係をひっくり返し、女が優位に立つにはコケットリーしかない。


男をコントロールできるほど優位に立つ女。男の夢見るような「小悪魔な女」。それは女にとって、仮装である。誰も元から小悪魔ではなく、小悪魔に「なる」のだから。
そして、そういう「女」を仮装しなければ、恋も人生も楽しめないとされている。蝶々も「女のフリを楽しめ」と書いている。女は「女」を磨き「女」をサービスしてればいい。そうすれば、こちらの欲しいものは物も知識も快楽も、男が与えてくれるのだと。


つまり、女の職業は「女」ということになる。女はすべてホステスであり、恋愛というお水業界に生きているのである。そこに未就職な者、そこで脱落した者、そこから転職した者は、「女」ではない、と。
このことを当然だと受け止める感性の上に、小悪魔ブームは成立している。