草実スサ氏の「整理」から

10/20の記事非モテ女が見えないのはなぜ?について、「こころ世代のテンノーゲーム」でumeten氏にある部分を抜粋され批判を受けたので反論していたら、「草実スサ日記」で議論のズレが整理されていた。
で、草実氏はumeten氏に向けて、自分であれば(私に対して)次のように振る舞うと書いていた(「」内が私)。

1.「物理的セックスにおいて、男が能動であり女が受動だ」
   そうですね。
2.「それに関連付けられる形で、多くの文化社会において、男に能動性が、女に受動性が割り振られてきた」
   そうでしょーね。
3.「それによって女は苦しんでいる」
   ええ、ですが私たち非モテ男は、能動性を割り当てられたことによって、女性とはまた異質な被害を受けています。
4.「性規範を変えていきましょう」
   そうですね。

   

模範解答だが、ちょっとキレイ過ぎるなと思った。答える側が戦略的に相手の言葉を4に持っていっているのはわかるが、私ならそう簡単に「性規範を変えて(というか、なくして)いきましょう」という結論づけはしない。
これは「なくしていきたい」と思っていない、「なくそう」という努力をしなくていいということではない。ただ、「なくしていきましょう」は何十年も前から言っているのである。昔は主に女性の側についてだったが、男性の側からそういう活動をしている人もいる。
それらが功を奏していたら、性規範、つまりジェンダー規範は、いい加減なくなっていていいはずだ。そして「小悪魔本」なんかが売れない世の中になっているはずだ。


大学で持っている「ジェンダー入門」の授業で、上のような流れで話して失敗したことがある(3の「非モテ男」は中流以下の男全般に置き換えた)。レポートで、「なくしていきましょう」が頻出したのである。それは良いことではないのか? 
良くない。


わざわざ私なんかに言われなくても、「性規範をなくしていくべきだ」ということは、大学生でも頭では理解している。しかしその頭の理解と感情とが乖離しているのは、彼らのレポートから見えた。彼らの「実感」がそこには伴っていなかった。
「実感」とは、「性規範は良くない。では自分はどうしたらいいのか。自分の言動や意識からなくすことができるのか。あまり自信がない。ではどうしたらいいのか」という、なまなましい葛藤である。
私は学生にまずそういう葛藤をしてもらいたいのである。葛藤しながら自分の内面を深くエグってもらいたい。とってつけたような優等生な答などいらん。そんなの、そこらのジェンダーの手引書でも一冊読めば書けることだ。
なのに、フェミニストと呼ばれたことも女性学の論文を書いたこともなかった"ノンキャリア"の自分が、初めてそういう授業をもったということで、それらしいことを言わねばならないという気持ちがどこかにあって、無意識のうちに教条的な語りをしていた。
その結果、素直な学生、あるいは講師の言うことを書いておけばいいと思う学生は、思考の跡のないレポートを提出してきた。


ちなみに「なくしていきましょう」と同じくらい多かったのは、「なくすったって難しいから差別だけ解消して、あとはうまく適応していけばいい」(男女半々)、「女は損だとつくづく思う」(大半女子)、そしてごく少数ながら「なくす必要などない」(男女半々)。
二年目以降は、なるべく「こうするべきだ」という結論を出さない、分析に徹した授業をした。答を求めて混乱する学生もいたが、自分の言葉で書く学生は増えたように思う。


それで、上の1〜4であるが、「」のところを私の思考の順序に沿って言い直すと、以下のようになる。
   

1. 多くの文化社会において、男に能動性が、女に受動性が割り振られてきた。
2. 社会的な男女平等が達成されても、この非対称性は残る。なぜならセックスにおいては、男が能動であり女が受動だから(これは男のフェティシズム、女のナルシシズムとも結びついているはずだ)。
3. このことが「社会的平等」感との齟齬を、女性の無意識の中に植え付け、女性に自己の不統一感、矛盾感、矛盾感ゆえにさらなるナルシシズムへの埋没をもたらす(のではないか)。
4. これを女性の側から生産的に捉えるにはどうしたらいいのか。
  a. セックスなんかしない(護身)‥‥非モテ女性が実践できる
  b. ディルドで男の肛門を開発する(攻撃)‥‥モテ女性が実践できる 
  c. 自己のナルシシズムを分析し、「矛盾」の向こう側に突き抜ける(止揚
   

人によってa、bもありだが、今のところは c かなと思う。
ただ問題は、こういう話に大学生(大半が一年生)がついてこられるかどうかということだ。「入門」の域を越えそうな気もする(それに、男について話さないわけにもいかないし)。