「非モテ論議」についての個人的且つ暫定的まとめ

問題は一つしかない

非モテの人の言っていることは概ねモテない「言い訳」と自己の「正当化」であり、自分で解決すべき問題の他への責任転嫁である」。
これが真であるか偽であるか、あるいはどれだけの割合の非モテ(を名乗る人)がそうなのかということに、私は関心がない。そんなことを議論しても意味がないと思う。
非モテも加害者だ」というデータをいくつ集めたところで、それに反するデータは出てくるだろう。水掛け論になるだけだ。


もともと私の興味の中心は「性」(セックス、ジェンダーセクシュアリティ)だが、「非モテ」について書いたことはブログではなかった。しかし10/13の記事の一部があるブログに引用されたことをきっかけに、たまたま議論に関わることになった。
10/26のコメント欄(07/11/20追記:復元不可能でした)のようなやりとりはおそらく、はてな界隈では何回も繰り返されてきたものだろう。「ああまた同じような議論を性懲りも無く‥‥」と、うんざりしながら見ていた人もいただろう。
この点について、私個人は特別熱心に非モテ論議を追いかけてきてないので、仕方ないことではある。その上で、今回確認したことをまとめとして書いてみる。


10/26のコメント欄で起こっていたのは、
非モテの被害妄想があるのではないか」
と言えば、非モテの人から長い反論が繰り返し来て噛み合わず、
非モテは見えない抑圧を感じているのではないか」
と言えば、非モテ批判の人から長い反論が繰り返し来て噛み合わないということであった。
つまり、非モテについての議論はなかなか噛み合わないまま、とにかく無駄に長くなる。
私が特別議論下手であるという可能性をこの際除いて考えると、この議論の長さは、非モテ問題が「非モテだけの問題ではない」からではないかと思われる。


非モテ」は紛れもなく「性」の問題である。今更なことを書いているようだが、「性」の問題からは誰も逃れられないという厳然たる事実がある。
私事だが三年前、初めて授業でジェンダーやセックスや恋愛の話をした時の、学生の予想以上の反応の強さに驚かされたことがあった。レポート用紙にぎっちり書かれた意見や感想(共感、反発含めて)を読み、「性」の話題がいかに人を刺激し言葉を引き出すものであるかを思い知らされた。
今回も似たような体験をした。
非モテについて論じることは、論者の性認識、性や恋愛についての考えを浮かび上がらせる。「性」についての言説は自分の位相を照らし出し、時として自分のジェンダー認識や恋愛観に否をつきつける。だから議論は錯綜し、終わらない。


まず、件の二つの議論をざっと振り返り、私の立場を改めてはっきりさせておきたい。
非モテゆえの被害妄想があるのではないか」
とは、反相対主義者氏の
フェミニズム非モテを抑圧している」
という主張に対する意見だった。
そうした場面は個別にあったかもしれないが、見たり聞いたりしたことをフェミニズム全体に結びつけて思い込みを激しくしていると感じたので、それを解除したいと思って言ったことである。


非モテは見えない抑圧を感じているのではないか」
は、本記事の冒頭に置いたイカフライ氏の主張に対しての意見だった。
そういうふうに見える局面はあるかもしれないが、見たり聞いたりしたことを非モテ全体に結びつけて思い込みを激しくしていると感じたので、別の視点を提供したいと思って言ったことである。


では私は、相手によって自分の立場を微妙にずらして反論しているだけだったのか? 


フェミニズムを畏怖、批判する反相対主義者氏に対しては、私はフェミニストとしてものを言っているから、反論は必然である。
フェミニズムが権力関係を生むジェンダーを指摘し、その規範の押しつけに抗する思想であれば、規範に囚われて苦しむ非モテの対極に位置するとは思われない。巷に流通するフェミニズムのさまざまな言説(「フェミウヨ」なんて名称まである)に対しては、建設的な批判がなされなければならないが、恋愛弱者である非モテを迫害するものとしてその思想を捉えるのは間違っている。


では、非モテ批判をするイカフライ氏に異議を唱えたのは? 
私が非モテ擁護、非モテの弁護をしたいから? 
そうではない。私が主張していたのは、一方に抑圧しようとする意志がないにも関わらず、もう一方に被抑圧感というものが生まれてしまう、その構造を分析し、その根本要因は何かを見るべきだ、ということである。
男女差別においても、男に抑圧しようとする意志がないにも関わらず、女に被抑圧感というものが生まれてしまうことが、問題の核心にあったはずだ。


つまり私の立場はどちらの人に対しても、同じである。
そしてどちらの議論においても、問題は一つしかない。

恋愛という幻想

10/26のコメント欄の最後の方で、非モテに抑圧を感じさせる要因は「恋愛至上主義」と「恋愛市場主義」であり、それを批判してなぜいけないのか?と書いた。これは既に「非モテ論壇」では散々なされてきた指摘だろう。


恋愛至上主義(=愛こそがすべて)はかつて、厳しい性規範に抗し、個人の行動と精神の自由を獲得する解放思想として賞揚された。恋愛それ自体が、親や家や社会からの「解放」であった。
しかし現在恋愛は、恋人がいることを示す示威行為、他者との差異化や、ジェンダー規範に逃げ込む口実や、「お得な結婚」に至るための手段として"も"、活用されている。
恋愛市場主義(=現実に適応せよ)は、そうした状況を如実に反映している。そこで暗に拠り所とされるのは、恋愛至上主義である。至上主義が市場主義に燃料を補給し続けている御陰で、「モテる方法」がさまざまなメディアに氾濫し、「小悪魔」本が売れ続け、ファッションやコスメから各種の恋愛したい若者向け消費産業が潤っているのだ。
「恋愛の価値」は、明治時代のプチインテリな若者を魅了した解放思想とはかけ離れたところで現在、不当に引き上げられている。そしてこれは、引き起こされるべくして起こされている事態である。


それを、高度資本主義社会は恋愛消費からも利潤を引き出すことで延命するのだと簡潔に言うことはできるだろう。
そのこととどこかで関連してもう一つ、(若者にとって)恋愛みたいなもの以外に楽しいことがなかなか見つからない、ということがあるのではないか。
金銭欲や物欲や消費欲や名声欲や勤労意欲や学習意欲や表現意欲、それらを原動力にして日々頑張ってもなかなか報われないという、身も蓋もない「希望」のない現実が表面化してきた時、性欲と個人的承認欲求を満たす以外に何があるだろう。
彼らを恋愛に向かわせる動機の一つは、将来が見えないから今しかない、せめて恋愛できるうちに恋愛して今を「幸福」に生きるしかない、という感覚ではないかと私は思う。


さまざな文学作品や映画は、恋愛の苦しみやアホらしさや惨めさや醜さも描いてきた。たとえば映画『トーク・トゥ・ハー』は、男女関係の不可能性について描き出した佳作である。
しかし「努力すればいつか報われる」「頑張ればより良い明日が来る」という人生と社会の右肩上がり神話が崩壊して久しい今、恋愛という美しい神話は至上主義と市場主義によって強力に生き延び続けている。ハリウッドの恋愛(賛美)映画しかり、近年の日本の純愛ものブームしかり、メディアに溢れるモテ関連情報しかり。
この「恋愛ファシズム」とも言うべき空気が、非モテもそうでない人も多かれ少なかれ圧迫している。若者で何も感じていない人がいるとしたら、それらを参照して恋愛成就に漕ぎ着けて今のところ「幸福」か、恋愛以外で自己実現できているからとりあえず気にしない、くらいのことだ。


こうした中でこれ以上、「恋愛は素晴らしい」「恋愛で人は成長できる」という恋愛至上主義の宗教的メッセージを無邪気に流し続けることは、恋愛できない者、そこから距離を取りたい者を追いつめると同時に、恋愛行動を消費の現場に引きずり込んでいる恋愛市場主義者の儲けに寄与することにしかならない。
恋愛は個人的なことだから個々で現実に適応し、個々で救済されればいいという言説は、それがどんな"親切心"や成功者の実感から出たアドバイスであっても、もはや反動である。
恋愛や非モテについて論じる際、この認識は必須ではないだろうか。


恋愛とは何かということについて、これまで多くの恋愛論が書かれてきたが、スタンダールの唱えた「結晶作用」にすべては集約される。
ザルツブルグの塩坑の奥に小枝を投げ込んでおくと、二、三ヶ月経って小枝は塩の結晶に覆われている。
恋愛において人が見ているのは、ただの小枝でなく塩のきらきらした結晶。
つまり恋愛とは幻想である。恋愛は幻想を通して相手を見ることである。
このことは、どんなに強調しても強調し過ぎるということはない。
そして幻想と知っているにも関わらず、人は恋愛に陥ることがあり、そうなった時は既に"手遅れ"であるということも、ここで改めて強調しておきたい。


人は恋愛なしに生きられても、幻想なしには生きられない。一切の幻想なしに、この現実に丸腰でただひたすら向き合い続けるということは、究極的にはできない。
だから、あらゆる理想主義が敗退した今、人が恋愛という幻想(理想)に一層惹きつけられるのは、市場主義の猛威を棚上げしたとしても避けられないことである。
いや市場主義が猛威を振るえば振るうほど、それとは異なるところに「真実の愛」があるのではないかという幻想を増大させる可能性もある(烏蛇氏のように恋愛の相対化を徹底し解脱するのは、多くの人にとっては困難なことなのだ)。


幻想であるという点で、三次元の恋愛も二次元の恋愛も同質である。それはいずれも性愛欲求の昇華を目的とする。
違いがあるとすれば、三次元で相手は「現実を生きて」おり、言動に責任をとる場面が生じるということと、幻想が崩れ必ずいつか終わりが来るということだ。そこで人は、異性との間の埋め難い深い亀裂をかいま見て打ちのめされる(ことがある)。
私が今、恋愛というものに積極的な"価値"を見出すとするならば、その点のみである。
人は異性に愛されないことに打ちのめされるが、異性と愛し合うことを通じても、深く打ちのめされるのである。