「女子」という自意識

独女通信編集部によると「最近では自分たちのことを言うのに、女子というのはふつうになっていると思います。女の子というと可愛すぎる。だから、中性的な『女子』が親しみやすく、照れ隠しという気持ちもある。また、アクティブな女性が多い昨今、女性というにはやや固いのかも」と話す。

「男子」「女子」がおおはやり 「男・女」「男性・女性」を駆逐(1/2):j-CASTニュース
「男子」「女子」がおおはやり 「男・女」「男性・女性」を駆逐(2/2):j-CASTニュース


とても今更感のする記事。と思ったら〇九年のものだった。
「女子」の登場がここでは〇七年頃からになっているが、九八年から〇一年にかけて、美容雑誌『VoCE』に連載された安野モヨコのイラスト付きエッセイ『美人画報』で使われたのが、そもそもの始まりだったと思う。〇四年、純愛ブームの最中に出版された『DVDで見たいっ!(泣ける)純愛ストーリー』(KADOKAWA MOOK)では、「ヒロインたちから女子力を学べ」として「女子」「女子力」という言葉が頻出している。


三年前に「女子」について書いたことがあったので、長くなるがそこから引用。

三十代の女子力


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 マーケティング情報紙『日経MJ』(日本経済新聞社、〇八年七月二一日号)によれば、三十代の女性向けファッション雑誌『InRed』は、〇七年からキャッチコピーに「美しき30代女子」という言葉を使い、それを機に販売部数が増大したという。〇八年九月号の特集は「30代恋する女子の秋服」。「可愛い大人の女」の代表として永作博美が表紙を飾っている。〇九年二月号の表紙も永作で「美しき30代女子のナチュメイク講座」の見出し。四十歳を超えたYOUや小泉今日子もたびたび表紙に登場しているので、アラフォー世代も「女子」でいいという勢いが感じられる。
 世間一般的に三十代と言えば、仕事ではそろそろ中堅、半分くらいは妻だったり母だったりする年代であるが、『InRed』は主に働く独身女性をターゲットにしている雑誌だ。恋愛への意欲の衰えていないシングルなら一層「キレイになりたい」という向上心があるだろうし、その努力をする人は「女子」を名乗っていいんだよと。「女子」という言葉が今時の若い女性を表すものとして流行したがゆえに、「30代の女子」はいつまでも「現役」でいたい三十代の女性読者に受けたのだ。
 ちなみに〇四年『LEON』の女性版として発刊され、「コムスメに勝つ!」がキャッチフレーズの『NIKITA』が理想の三十代女性を指した言葉は、「艶女アダージョ)」だった。『NIKITA』休刊(〇八年三月)と『InRed』の売り上げ増大は、艶かしいフェロモン全開のオトナの女より、フェロモンは適度で若々しく可愛い女に見られたい三十代女性の心理を反映しているかのようである。だいたい「艶女アダージョ)」は難易度が高く金がかかり、一つ間違えば斜め上の方向に道を踏み外しかねない。ネタとしては面白いが普通の男にも女にも引かれそう。その点、「女子」は安全圏にある。
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学校時代へのノスタルジー


 一部に違和感を喚起しつつも、非当事者のみならず当事者にも便利な言葉として使われている「女子」。十代から三十代までカバーする「女子」。その使い勝手の良さの裏にあるものとは何か。
 「女子」の利点は「女」、「女性」と比較してみると、はっきりしてくる。「女」にはどこか、性的な存在としてのナマナマしさが感じられる一方、「自立した女」「オトナの女」「媚びない女」のような、妙に目線の高い感じも醸し出される。「女性」はいささか改まり過ぎで、常に男性を視野に入れ、いざとなれば「女性の立場」から発言しなければならないような窮屈感が出てくる。そこへいくと、「女子」にはひきずるものがない。「女」や「女性」にあるアクや重たさは払拭され、性的イメージも幾分薄められる。
 先行世代が使った「女」や「女性」としての自意識の底にあるのは、「女って何?」「私って何者?」という問いであった。それが切実だったのはわかるけど、いい加減ウザったいものがあるし疲れませんか、ということだ。替わって出てくる「女子」にあるのは、若々しさと気楽さとカジュアルさであり、私の趣味やこだわりを最優先したいという個人主義である。「女子」は我が侭であることを許される、「暴走」*1だってできちゃうのだ、と。


 主に学校の中で使われてきたところから見ても、「女子」という言葉は一種の「猶予期間」を表している。学校の中の女子は、社会人としての責任や重圧や、主婦業や育児といった性別役割とはまだ無縁の存在だ。学校は「男女平等」がもっとも実現しやすい空間であり、「ガラスの天井」などというものはなく、頑張れば男子より優位に立てた。「女子だからってナメんなよ」と強気にも出られる一方、いざとなれば女子の特権を行使できた。さまざまな可能性を担保しつつ、若い女の子であることを謳歌していた学生時代。いつまでも、あの時の元気で我が侭で自由だった私でいたい。
 大人の女性の「女子」という呼称、自称には、こうした「学校の女子」時代へのノスタルジーが感じられる。そしてその時、私はどうも落ち着かない気分になる。学校はそんなにユートピアだったのだろうか。「女子」であることは、そんなに楽しいことばかりだったのだろうか。むしろ学校を出て初めてはっきりと肌身に沁みて知った社会の規範、性差をめぐる鬱屈や理不尽感、それらによる酸っぱい体験の積み重ねが、自分が若くてこわい者知らずだった学生時代を相対的に輝かせて見せているだけではないか、と。


 確かに、「年頃になったら嫁に行け」「結婚したら家で家族に尽くせ」という強制力が弱まってきた現在、女性には多様な生き方の選択肢が開けたと言われている。男女差別の是正が取り組まれ、女性を「お客様」とする市場はかつてないほど膨れ上がり、文学でもアートでも音楽でも女性の才能が注目を集め、ドラマや映画ではかつてのヒーロー顔負けの強くて魅力的なヒロインが活躍している。あちこちで「女性ならではの目線」が尊重され賞賛される。
 その一方で、結婚を望む女が容姿を、男が経済力を相手に期待されるという構図はまだ盤石であり、経済格差、学歴格差などを背景とした「女女格差」も表面化している。「美しき30代女子」を謳歌しながら、優雅な「おひとりさまの老後」に夢を託すことのできる女性は、一握りだ。ゼクシィな妄想を逞しくしても、結婚したらしたで専業vs兼業の争いに巻き込まれ、ワーキングマザーを目指せば仕事と家事育児のやりくりや再就職の困難に突き当たる。
 誰もが「多様な選択肢」から個人主義で「自由」に選択できるわけではないのは、当然の話なのだ。また、自由な選択が「幸せ」を保障しないのも、当然である。保障されているかのような幻想が、女性の周辺に蔓延していただけである。

「女子」という処世術


 そもそも、個人主義的に生きることほど実は難しいことはない。個人主義的に生きるとは、他者の視線に頓着せず、あくまで己のルールのみに従おうとする態度である。「我が侭」と言えばそれが究極の我が侭だ。そこまで「自由」な道を歩く勇気と覚悟があっただろうか。だいたい「見られる者」として生きてきた女が、他者の視線をどうして無視できようか。もちろん、今更男と対立しても疲れるし大して得することはない。甘えられるなら素直に甘えてみたいです。でも下手に出るのは自尊心が許しません。「女」と看做されないのは嫌だけど、「女」とだけしか見られないのも困ります。おっとその前に同性に嫌われないようにしなければ‥‥。
 そうした二〇〇〇年代の女性の性認識の葛藤と捩じれを、牧歌的な学校イメージに包んで曖昧化したジェンダーポジションが、「女子」である。「女」や「女性」ではともすれば男性や社会との緊張関係が浮上しそうだが、「女子」なら「男子」とは敵対しない。「女子」同士でもユルく繋がれそうだ。つまり「女子」という立ち位置に現れているのは、異性との、同性との、社会との間に生じる軋轢を最小化して乗り切ろうとする処世術である。


 「キレイ」と「モテ」を目指す道と、「女子力」アップ競争から降りる道。よりどりみどりの○○系女子。お手本はファッション誌からエッセイから漫画まで、いくらでもある。その中から、どれを選べば心地良いのか、どういう「私」が私にぴったりくるのか、どう見えたら他者の承認が得られるのか、が悩みどころだ。三つのベクトルが交わるポイントに、私に相応しいモデルがあるはずだから。でも自分の立場をわきまえずに外したら、ちょっとみっともないことになろう。だから選択は慎重に。いやいや無理して一つに決めず、その場その場で違う「女」、違う「私」を演じればいいのかも。じゃあその具体的なTPOはどう考える? 
 こうして、あれかこれかと悩むことがアイデンティティになっていく。いつしか「女って何?」「私って何者?」と問わずにはいられなくなる。
 それは「女子」を自認してようがしてまいが、「男」でも「男性」でも「男子」でもないと自覚した者が一度は囚われる、うんざりするような問いである。それを問わずに恬淡と生きられる人が、己のルールに従って生きる人なのだろう。だがおそらく、うんざりするような問いを迂回しては誰もそこには辿りつけないのだ。

(『女が邪魔をする』(2009、光文社) 「第二章「女子」という自意識」より)

*1:この前の項で、広告業界雑誌『宣伝会議』(〇八年/五月一日号)の特集「"暴走"する女子たちのスゴイ商品開発力 「女子力」が市場をつくる!」について触れている。