これはひとりごとではないです。つっこんでください。

9日の記事について

「ブログに現れる『私』という症候』」という最近書いた記事が、なんとなく、自意識の表出を批判している記事だと受け取られているような気もしないでもないのだが、これは単に私の自意識過剰のせいなのか?
記事前半は千野帽子の雑誌連載記事のまとめであり、記事後半は自分の観察結果と千野氏の言説との擦り合わせであり、自意識の表出それ自体についての価値判断は下していないにも関わらず、それを批判していると読んだ人がいるとしたら、それはいったいどういう自意識k(ry
言葉の火遊びはおいといて。


自意識とは、こちらで草さんが言っているように、「自分を自分で見る(自分をメタ視する)」内的視線のことである。自意識は、人が「見るー見られる」という関係の中にあることを自覚した時点で発生したものだろう。「自」は「他」があって初めて立ち上がってくる。
自意識が強大になり過ぎて刺激に過敏になることを、自意識過剰と言う。誰も見てないのに見られている、誰も言及していないのにされていると感じて反応したりするように、他者のふるまいやさまざまな事象などを、すべて自分に向けられたものとして解釈せずにはいられない状態だ。
それが嵩じると「自分についてこう思っている自分、キモい」と思い、それを口にして「わざわざ言ってみせる自分、キモい」と思うような無限後退に陥る(まぁでもわりとあることですよね。私もある。キモいので書かないけど)。


「自意識過剰だよ」と人に言われたり自分で気づいたりすると、大抵少し恥ずかしくなる。自意識の強さ大きさも程度問題であって、それが行き過ぎるのはよほど自分自身から目が離せない人だろう、つまり過度にナルシシズムに捉えられているか、その逆に過度にコンプレックスに苛まれているかのどちらかだろうと思われるからである。


さて、千野帽子の言う<ブログに現れる「私」の表現方法が、「少女漫画的『私』」になっている現象>とは具体的には、自己言及的記述の多用という、言わば自分自身から目が離せない状態である。これは一種の自意識過剰であり、しばしば見られる現象でどうということはない。
(ちなみに、自意識過剰ぶりをどのように記述するかで、その文章は面白くもつまらなくもなるということは書いた。千野帽子は、インターネットの場における赤裸々な自己言及の垂れ流しを、いささか批判的な目で見ているのだが、私は「それは書き方次第だ」と言っている。ブログに文章を公開するという行為、それも自分について書く文章で、まったく自意識過剰にならないでいることは難しいと思うからだ)


千野の指摘のポイントは、その先にある。
彼は、こう見てほしい、受け入れてほしいという欲望から自己言及的操作に専念するあまり、他人にちょっと批判されるとキレるという、単なる自意識過剰に留まらない態度(PDFを送ってくれた知人の言葉で言えば「未熟な反応」)に注目している。
これは、他人の言葉によって相対化されてはならない"聖域"となってしまった「私」の自意識が、ブログという公に開かれた場をすっぽり覆い尽くしているような状態だ。
それを私は「自意識の肥大化」と呼んだのである。そうなる理由について、私の推測を最後に書いた。


>抑圧されたものは別のかたちで回帰して症候となる。ブログに現れる「私」は、三次元世界の「私」の症候かもしれない。


この二つの文はタイトルに凝縮しており、私独自(あまりユニークでもないが)の意見と言えそうなところは、全体の中でここだけだ。それに誰もつっこんでないのが不思議だった。結構つっこみどころあると思うんだけどな。


●言及記事
「私語り」の衒学趣味者的感想 - しあわせのかたち