id:umetenさんへのお返事

※5/8、若干の加筆があります。


混乱の二重奏【書評】『アーティスト症候群』【広告】その1 - こころ世代のテンノーゲーム
混乱の二重奏【書評】『アーティスト症候群』【広告】その2 - こころ世代のテンノーゲーム


本をお送りしてからの10日近く、「いつ書評が出るんだろー。速水さんの本を酷評してたからあのレベルは覚悟せねば」と毎日頻繁にumetenさんのとこを見てました。ということをご存知故かどうか知りませんが、トラックバックくらい送って下さい。
で、これまでネットでも紙媒体でも、共感、賛同、反発、批判を含めてさまざまな感想、書評を目にしてきましたが、手厳しい評ながらもっとも本書の根幹のところに目を向けようとしている文章だと感じました。
真摯に受け止めて頂き、心から御礼を申し上げます。ありがとうございました。


ただ根幹に言及しようすることでかえって、umetenさん自身が「アートとは何か」という問いに取り憑かれ、思考が行きつ戻りつしているようにも見えました。また、本書では完全に別個のものとしては扱っていない大文字のART - アート、アーティスト(芸術として歴史的に位置づけられるもの)と小文字のart - 「アート」「アーティスト」(消費されるもの、症候群)とを、対置しています。以上のことが書評後半部にも影響していると感じました。
もっともumetenさんにアートと「アート」をめぐる混乱を感じさせたのは、多分に私の書き方のせいでもあります。これについては後で述べます。


まず、「アートとは何か」については本書で何度も書いていますので、主なところを挙げます(以下の美術、芸術ともにアートを指していると読んで頂いて結構です)。

[‥‥]つまりところ美術は、「美術という名前の領域不確定な何か」としいか言えなくなったのである。逆に言えばそれは、美術(=芸術)に価値を保証する確たる基準や根拠が、これまで作ってきた美術の権威に頼る以外、もうどこにもないということだった。
 これは身も蓋もない事態である。蓋もないどころか、底が抜けている。底が抜けたまま今に至っているわけである。(p.21)


 何がアートなのか。何を美術として(も)見るか。それは常に現在の視点から語られ、更新されるのである。アートというカテゴリーが誕生し、あらゆる既存の制作物を「アートとして見、鑑賞する」という見方を知ったから、印象派の画家達は日本の浮世絵を「発見」し、そのエッセンスを作品に取り入れた。[中略]
 だから今、アートとアートでないものの違いは、それが発表される環境、流通する業界、語られる文脈によってのみ識別されることになっている。(p.125〜126)


[‥‥]アートは、誰に、何に、向かっているのだろう。ここで百通りの答えが出てきそうだ。百通り答えがあるということは、決定的な答えがないということである。言い換えればアートは、誰のため? 何のため?という受け手の問いを喚起し続けるだけのジャンルとも言える。(p.164)


アートは、「近代ヨーロッパ社会の「自由」と「平等」を体現するジャンルの一つとして、過去の遺産の上に新たに構築されたもの」(p.126)であり、「アートとは何か」という「自分探し」の問いを巡って不断に更新されて(常に前のものを批判し乗り越えられて)きました。
その結果、自律していたアートの範囲は限りなく拡大していき、「アートという名前の領域不確定な何か」としか言えないものになりました。だから70年代に「芸術の終焉」が囁かれたのです。「芸術は死んだ」と。現在でも基本的な状況は同じです。
本書ではごく簡単にしか触れていない、こうした大文字のアート(やアーティスト)についての歴史認識は、近現代美術史に触れた人には広く共有されるものだと思います。


ただそのあたりを改めて細かく論じても、少しアートに興味(や疑問)をもっているだけの人にはピンとこないでしょうし、専門家には今更な話です。
私が本書でかなりの枚数を費やして小文字の「アート」や「アーティスト」を描写したのは、そういう卑近(「ゴシップ」)な現象分析を通じて、大文字のアートの空洞化=終焉ぶりを逆説的に浮き上がらせるためです。なぜなら、アートの行き詰まり問題と「アート」の消費の問題とが別個のものではなく連動していたことは、80年代以降よりはっきりとしてきているからです。
こうした大文字のアート、アーティストの中に起こっていた「小文字化」(そういう言葉は使っていませんが)については、「美術家からアーティストへ」の章で述べています。


岡本太郎の「芸術は爆発だ」も村上隆の「芸術はビジネスだ」も、それぞれの位相で「正しい」です。言い換えればそれは、個々の作家の芸術観、スタンス、作品を通して、芸術、アートの一側面をクローズアップした言葉です。前者はまだ芸術が自律したジャンルとして「生きて」いた時代の、後者はそれが「死んだ」後のアート=商品を表す言葉として象徴的です。
しかしだからこそ「いや、芸術はそんなものではない。芸術とは‥‥アートとは‥‥」という反論、別の答えも常に招き寄せます。


つまりumetenさんのようにアートを「困難な問い」としてしまえば、アートの内側からの「答え」が要請され、それがまた際限なく「アートとは何か」という神経症的問いを喚起してしまうわけです。こうしたことは今、芸術に対する信仰とそれを支える機構=制度と市場を維持延命させていくためのマッチポンプとして機能している、と私は見ています。
その中でアートは、結論を先送りしつつ「常に前のものを批判し乗り越えながら、その先にある「自由の気配」を示す」(p.226)ものとして存続しています。「自由」ではなく、「自由の気配」だけを希望の言葉で。


そのような振る舞いそのものから、私は降りたのです。
指摘されているような「「わかりやすい答え」という落とし穴が待ち構えてもいる」から回避したのでも、「その「問い」をその身の内に積み残している」のでもなく、アートの内側から答えその延命に寄与することは拒否するという選択をしたのです。


アートとは、近代ヨーロッパが生み出した歴史的カテゴリーの一つであり、制度と市場にがっちりと支えられた「自由の幻想」というフィクションです。それ以上でも以下でもありません。その内部にはもう「逃げられない問い」「困難な問い」などないのです。あるかのように思わされているだけです。問われているかのように。答えねばならないかのように。
本書の「私もアーティストだった」の章で書いたことは、それにようやく気づいたという経緯です。個人の体験として書いていますが、単に個人レベルに還元できるものではない射程の問題として提示しています。
私は長らく、自分の属するジャンルが近代の(というか人間の)もっとも重要な所産であると捉え、だからこそ意味をもつものであろうと期待してアーティスト活動をしてきました。その延長線上で「こういう選択しかない」と思ったのです。
従って書評で予告されているように私が再びアーティストに戻ることはありません。


umetenさんは「アートとは「困難な問い」そのものであり、それに答えるにはアーティストに留まるしかない」という前提で書いていると思うのですが、その前提が私とは違うと思います。
しかし、本書が「アートとは何か」という問いに答えていないとの指摘が出てくるのは、umetenさん自身がアートにどこかで信仰を抱いているからでは?という可能性を除いて考えれば、私の以上のような考えの提示の仕方がまだ甘い故に、曖昧な解釈や混乱を呼び込む隙間を作ってしまっているからだろうと思います。



さて、前半部に対する応答だけでえらく長くなってますが、後半部行きます。

すなわち、「アートというジャンルにまつわる問題」と、「消費される「アート」という現象にまつわる問題」とが織りなす混乱の二重奏。それこそが、読者からの称賛と非難という副旋律を生み出しているのだ。


この二つが、現在切り離せない問題であることが重要です。
平たく言えば、アートというジャンルにまつわる問題に答えが出されてそれ以上前に進むことができなくなった後、制度と市場を維持していくためには、「アート」的なものの一部をもアートとして取込みつつ、ポストモダン的装いによってアート言説の再生産と消費を促進していくしか延命する道はなかったということです。
むしろ問題が風化した時初めて、制度に守られた位相にありながら一方では資本主義社会の消費カルチャーとして受容される<アート=「アート」>の姿が浮かび上がってきたとも言えます。
「自分語り」の章でもこの二つの抜き難い関係について述べています(p.225〜227)。自分の中でアートと「アート」の区別をつけていたはずなのに、実際は(現実も自分の立ち位置も)そうではなかった。この部分は短いですが、本書の核心部分です。
大文字のアート、アーティストを担保したままで、小文字の「アート」、「アーティスト」を批判しているのではないのです。もしそうなら、アーティストを廃業するに至った経緯を書いた「自分語り」は不要です。
ただそこまでのところが裾野の諸相を描くのが主になっているため、アートから「アート」を批判しているようにも読める(特に「芸能人アーティスト」の章)ことは否めません。


次に「自分語り」を誠実なものとして一旦評価しつつも、最後の章で「アーティストになりたいココロ」を「オンリーワンのアイデンティティを求める承認欲求」と結論づけたことに対して、アーティストがオンリーワンと看做されているならトートロジーであるとの批判がなされています。
ここで描いているのは、それまでの章で場面やジャンルごとに分析してきたアーティスト志向を、典型的な三つの個人レベルに置き換えたものですが、「承認欲求」であることについては序章で既に結論を出してしまっています。この切り口自体にあまり意外性はないですし、トートロジーと言われればその通りです。
「なぜそのトートロジーが発生するのか」については、「なぜ(現代の)若者にオンリーワンになりたいという欲求が生まれるのか」という、その欲望の根拠について、近代史的あるいは社会学的な考察をすべきだということになるでしょうか。だとすれば、考察が足りておらず「問題を回避」しているというのはおっしゃる通りです。

わずか一冊の本でアートについての「わかりやすい答え」が出せないことは、先にも言ったように理解できる。しかし、「アートという問いから降りている」ことが原因となって、この本にはアートについての「とりあえずの結論」すらないのである。

では、「アート」についての答えならあるのか。しかし、それもまた本書のロジックからは導けない。「アーティスト症候群」として語られる心理が、カッコ抜きのアート志望者の心理としても通用してしまうからだ。


このあたりについては前半部への応答で代えさせて頂きますが、最後の章はまさしく美大生に見られる「カッコ抜きのアート志望者の心理」として書いています。
彼等のアーティスト志向の中にはそれがどんな"カジュアル"なものに見えたとしても、「自分流」や「自然体」を装ったものであっても、芸術(アート)という錦の御旗がどこかで確保されています。
それは、その前までの章で論じてきたさまざまなアーティストやアーティスト志望者達、そしてかつての私とも基本的に同型の「承認欲求」に繋がってゆくものです(「アーティスト症候群」というタイトルは、「自分語り」の章にも当然かかっています)。

「アートと「アート」には垣根なんかないんだ。」辛辣に批判されていたはずの読者が、アートは「アート」なんだ。「アート」はアートなんだ。僕はここにいていいんだ!ーーこう思ってもなんの問題もないまま、本書は幕を閉じている。アートという自意識から上から目線でレベルの低い「アート」を批判していたはずの著者が、まるで「すべてのチルドレンにおめでとう。」を言っているようにさえ感じられる。これを歪んだ愛情表現という言葉で済ませていいのだろうか。


いや(笑)‥‥正直に言ってここのところは一番困りました。これまで散見した感想や書評、あるいは周囲から聞こえてきた意見などからして、そんな能天気な読みをする読者がいるのか疑問に思いますが、もしそう読まれているのだとしたら、本書の狙いはほとんど伝わっていないことになります。


以下、問題とされている最終章の末尾部分を、参考のために追記(5/8)しておきます。

 自分流。自然体。別格。その共通点は、「ナンバーワンよりオンリーワン」である。オンリーワンの自分を評価し承認してほしいという欲求が、「アーティストになりたい」という欲求の根っこにある。
 オンリーワンを評価してくれる場所は意外とない。学校ではナンバーワンを筆頭に成績がつけられる。オンリーワンが認められるのは幼稚園くらいだ。就職でも当然ナンバーワンの者から採用される。職場では常に人と競争しナンバーワンを目指さすことを強いられる。恋愛では、ナンバーワンやツーの男女が早々とくっついた後で、残りが争奪戦になる。結婚すれば一応互いにオンリーワンということになるが、結婚すること自体のリスクが大きい。ネットでブログでも書いてささやかな自己満足に浸ろうとしても、アクセス数だの被ブクマ数だのでランキングの格付けがある。いくら「ナンバーワンよりオンリーワン」と唱えられても、世の中はナンバーワン体制なのである。その中で唯一、アートの世界だけがオンリーワン体制をとっているように見える。むしろアートの世界それ自体が、格差社会の中のオンリーワン・ユートピアではないかと。
 外から見ればそんなふうに見えるだけで、アートの世界もナンバーワン体制下にあるのは言うまでもない。ただそこに漂う年期の入った「特別オーラ」は、魅惑的に映るだろう。「アーティスト」は常に、それを名乗る者の潜在的な「可能性」を示唆する言葉だ。よくわからない「クラス感」まである。だからとりあえずそこに所属して、人にアーティストと呼ばれたい。それによって、自分はオンリーワン・ユートピアの一員だというアイデンティティが欲しい。そうなったら、「何か」ができそうな気がする‥‥。
 こうして今、「アーティスト」というポジションは、膨れ上がる「被承認欲」と根拠なき万能感を抱えた若者の、夢の受け皿となっている。アーティストに憧れる者が次々そこに集まってきて、皿は四方八方から引っ張られ、どんどん拡大している。
 もう限界ぎりぎりまで歪な形に広がり切ってしまった「アーティスト」という巨大な受け皿。
 その上でひしめき合うオンリーワン達。
 皿を叩き壊す者が真のオンリーワン・アーティストかもしれないことには、まだ誰も気づいていない。


全体を通してむしろアートと「アート」が見分けのつかないものとして論じられている点が、一定の読者の不快を喚起するだろうと予測しました。素朴にアート、アーティストだと思っている人は「症候群」として描かれているのでもちろんですが、アートの側にいて「アート」を批判したい人も、はっきりとした線引きがされてないので一緒くたにされて微妙に不快になるということがあるかと。
さまざまな「症候群」を描く中に、大文字のアート、アーティストへの疑問を時折混ぜ込んであります(そのようにした理由は既に書きました)ので、「アートとは何か」を知りたい人にとって読み取りにくい面があったのは事実だと思います。
アート=芸術の終焉が「アート」の氾濫と拡散を招き、文化的なブランド商品としての存在様式がはっきりしてきた一方で、多様性という名の可能性があるかのように語られているという分析(各所に散らばってます)を基調低音のように頭に入れておいてもらわないと、大文字のアートについては批判せずに小文字の「アート」、「アーティスト」をおちょくりたい人の溜飲を下ろさせることで終わってしまうわけです。
にも関わらず「自分語り」の中でははっきりと大文字批判があるわけで、それが「混乱の二重奏」と感じられた要因だと思います。これについてはumetenさんがコメント欄で述べているように、もっとポイントを絞って戦略的に書くべきだったかと反省するところです。

そして、その不誠実さを乗り越え、誠実さを担保する告白を挟んだ上で本論を組み立てたとしても、そこにはさらに困難な「問い」が待ち構えている。「自分探し」の果ての「自分発見」「本当の自分」を信念として認めるというのであれば、「いったい何が問題として残るのか」という問題である。

これこそが本来、問い突き詰められねばならない「問いの核心」ではないのか。


ここは文脈上『自分探しが止まらない』について述べられているところだと思いますが、一応私に向けても書かれていると勝手にクリリンしてお答えします。
「「自分探し」の果ての「自分発見」「本当の自分」を信念として認める」といったようなことは、書いていません。それでも意志と欲求があるのならどんどんやればいいのではないか、とはあとがきに書きました。これは「信念として認める」というようなものではなく、一種の突き放しです。
最後の章で「自分流」「自然体」「別格」を通じてオンリーワンを目指す彼等を批判的に描いていますが、ある層の若者にアートっぽいものに向うしか自己表出の場がないのは、現場を見て感じています。私の目にはそれが制度や市場と遠く離れたものとは見えないですが、今とりあえずはそれしか知らないのならば、完全に否定することはできないです。
もっとも私としては、アートで自己実現してガス抜きするより別の困難でスリリングな道を選んでもらいたいですが、自分自身20年もアーティストをやってしまった立場で、「そんなことしてないでテロでも革命でも起こせ。でないのなら普通に働いて地道に金を稼げ」とまで言う傲慢さも持てません。それはアートをやめて書くことを選んだ今の自分に跳ね返ってくる両刃の言葉でもあります。



全体として「症候群」の見本市的印象が強く、「いったい何が問題として残るのか」という問題の所在が見えにくいのはご指摘の通りだと思います。
「症候群」という枠組み内での個々の事象分析は読み物としてはそれなりにできていても、総体的にアート批判としてわかりづらいものになっているのは、私の構想力と押し出し力の足りなさによるものです。細部に淫してしまい、主張の根幹部分を明確に伝えきれるところまではいっていません(たぶん極一部の人にしか)。それは改めて痛感しています。


何年か先になると思いますが改めてまとまったものを書きたいと思っています。なぜアートがここまで喧伝され消費の対象となっているのか、現在のそういう「活発」な動きが覆い隠しているものは何か、といったことについて書かねばならないと思っています。
長くなりましたが、重ねて今回はありがとうございました。自分の話法の問題点もいろいろとはっきりしてきた気がします。精進したいと思います。



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