わたし、ホタテのグリルになってもよろしかったでしょうか?

こちらのブクマぺージのbunoumさんのコメントが個人的に大変ウケたので、タイトルに拝借致しました。勝手に使ったなと怒らないでくださいまし。


まだこの件について書くかと言われそうですが、こちら、ホタテのグリルになりますの記事に、いくつかトラックバックを頂いたので、またつらつらと。以下、二つの記事から抜粋させて頂きます。

ご存知と思いますが、英語には動詞や助動詞の過去形を用いて丁寧語とする文法があります。また仮定などの婉曲表現にも過去形を用います。


これは一般的に時間的隔たりを表す過去形を用いることによって対象となる人・事象との距離(隔たり)を持ち、表現をやわらげていると解釈されます。
相手との距離感は丁寧表現の基礎となるものであり、これは言語というよりも人間のコミュニケーションにおいて普遍的なものですよね。


となれば、日本語においても時間的隔たりを持たせることにより相手との距離感を持たせ、丁寧さを表現する感覚を持つ話者がいても、もしくは出現してもなんら不思議は無いのかな?と、そのようにおもいます。


新しい言語感覚を持った人が出てきていろんな言い回しを使いながら表現の幅や方法を変えていくのってとっても大切なことなんじゃないかなって。


所詮文法なんてものは便宜上作られた作為の産物です。言葉ってそんな風に縛れるものじゃないって思うんですがいかがでしょうか?
自由帳 - re:こちらホタテのグリルになります -

 そもそも、居酒屋の店員もレストランの店員も、客を尊敬しているわけではなく、「そういうもんだから」敬語を話しているので、「そういうもんです」と言われれば、東京山の手言葉としては正しくなくても、それに倣うのではなかろうか。


 私は、こういう「正しい日本語」を推奨する言説は、「日本人の英語発音が、いかにたどたどしいか」を揶揄する英語ネイティブスピーカーの言説に似ていると思う。(あと、いかに自分が苦労と努力でネイティブの発音をできるようになったか自慢する非ネイティブ。)


 私には、「正しい敬語」を話せることより、言語のすばらしさを感じることがある。それは、言語というのは多少文法が間違っても通じるということである。


 たとえ「こちら、ホタテのグリルになります」と言われて、違和感を持ったとしても、「今から、このホタテがグリルに変化するのか!」と思う人は(多分)いない。多くの人は、「ああ、これはホタテのグリルなんだな」と思うのだ。


 だから、トイレに行きたいときには、正しくその意思を伝える必要はない。とりあえず「私はトイレに行きたい」ということが伝われば、伝わった相手がその措置を考えればいいのである。あとは、言う側が工夫することは、相手の気持ちを自分に有利に動かす言葉のチョイスである。敬語の正しさと、相手の気持ちを動かす力が正の相関関係にあるとは限らない。

今からホタテのグリルになるわけないやん - キリンが逆立ちしたピアス


後の「キリンが逆立ちしたピアス」さんの記事では「敬語」の問題とされているが、「〜してもよろしかったですか?」「こちら、〜になります」は、むしろ最初の「自由帳」さんの言う「丁寧表現」に当たると思う。つまり私は「『正しい敬語』を話せ」ではなく、「その丁寧(婉曲)表現には違和感がある」ということを言った。


書かれている角度は違うのだが、両者に共通して言われていることを私なりにまとめると、
「言葉とは文法的な正しさのみに則って話されるのではなく、その時の状況や関係性の中で意思なり気持ちなりを伝達、表現する感覚的で複雑で可変的なものなんだから、文法の細かいことにいちいちつっこむのは、杓子定規で無粋なんじゃね?」(意訳)
でしょうか。
まぁそれももっともですなぁ。


私も普段、文法的にはずいぶん適当な言葉遣いをしている。ブログでもニュアンスを伝えるために、わざと(文法的に)おかしな言い回しを使うこともある。わざとじゃなくおかしくなっている時もある。特に日常会話では、伝わればそれでいいというわりと感覚的なスタンスだ。
「お皿をお下げしてもよろしかったですか?」にいちいち眉を顰めたりしないし、「こちら、ホタテのグリルになります」に「いつなるんですか?」と意地悪く返したりもしない。当然だ。「はい、どーも」とにこやかに対応しておりますわ。大人ですもの。


だが、裏で「むむ?」となった違和感は、どこにもっていったらいいのだろう?というのがある(ないって人はいいんです)。
その「むむ?」は、一時期流行った語尾上げ言葉を聞いた時の感じに近い。
あれはフレーズごとの語尾を上げることで、「これは断言するものではありませんよ」感を醸し出し、同時に相手の同意を婉曲に求めている風な体裁をとっていたが、どうにも苦手だった。なんというか、発話者の責任主体がワンフレーズごとにぼやかされているようで。
これは感覚的なものなので、どうしようもない。


ホタテの記事の冒頭に、その前の記事に入ったコメントの一部を引用した。
正直、このコメントを読んだ時はちょっと驚いた。スムースなコミュニケーションという観点からは決定的にマズいだろうし、普通の人からしたら大人気ない態度ということになるだろう。
でも、いかに会話を円滑に運ぶかとか空気を読むかということが重要視される中、普通なら流すところ、理屈を言う場面じゃないところで、あえて理屈を唱えるという姿勢がおもしろいと思った。
空気を読んでないのではない。空気を読んだ上で、ぶち壊している。理屈のために。
お約束や場の雰囲気より理屈を優先することで逆に見えてくる、言葉の不思議さ不可解さ。そこに期せずして現れる話者の無意識。聞き手との齟齬。


それで、自分も普段もっていた違和感について、書いてみたわけです。
別に「『正しい日本語』を推奨している」ほどの信念もないし、まして「『日本人の英語発音が、いかにたどたどしいか』を揶揄する英語ネイティブスピーカーの言説」や「いかに自分が苦労と努力でネイティブの発音をできるようになったか自慢する非ネイティブ」の言説に似ていると言われても、ポカンとしてしまいます。
だってあれ、接客に特化した特殊な言い回しでしょ? 私としてはごく素朴な「変だな」感覚である。ちょっとおかしな言い回しでもユニークで新鮮に感じるものはあるのに、なんであれは不快に感じるのか、そこを言葉で解きほぐしたい。


とりあえず、それらの言葉を含めたファミコン言葉(ファミレス、コンビニの接客用語)が「バイト敬語」と呼ばれているということで、Wikipediaより引用。

正しい敬語を使い慣れない、若いアルバイト店員や学生アルバイトが主になって接客する必要のある状況で、とりあえず客を不快にさせない接客をするために、便宜的に発生し、不文律的にマニュアル化されてきた特殊な接客用語と言える。若者に限らず、これらの表現で接客する上記業界従事者は増えている。また、接客以外の事務系の仕事においても使用者が広がっている。


一般的には「日本語の乱れ」の典型とされ、マスコミなどで度々その違和感が指摘された。その一方、それほど慇懃に応対する必要のないカジュアルな接客シーンにおいては、一応の受容が可能な表現であると、いわば現代の吉原言葉のようなものとして容認する意見もある。なお、バイト敬語の要件はあくまでも接客時に特徴的なことであり、日本語として間違っていることや新しい表現であることを要件としない。古くからある正しい日本語であっても、使い方や使う場面によってはバイト敬語とされることがある。


丁寧な接客を旨とする大手デパートなどでは、使用を禁止して正しい敬語を使うよう店員を教育しているところがほとんどだが、デパートでもこれらの表現が聞かれることもまれにある。接客場面で使われる機会や耳にする機会が増えるに従って、違和感は薄らぎつつあり、接客用語として定着する可能性がないとは言えない。また、郊外型のドラッグストアや大型食料品店などでは彼等より年齢が上のパート従業員にまで浸透し始めている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/バイト敬語


つまり「〜してもよろしかったですか?」も「こちら、〜になります」も、「便宜上作られた作為の産物」なのだ。言わば、ファミコン接客の文法。ファミコン言葉はこれ以外にも「名詞+の+ほう」(例:ガムシロップのほうはお付けしますか?)、「お会計○○円からお預かりします」などいろいろあり、いずれも言葉の輪郭がやや曖昧になる。
若いアルバイトの人にとっては、そのワンクッション置いた感じの直接的でない言い方が、心理的に言いやすかったということが大きいのだろう。接客にふさわしい笑顔や立ち振る舞いがスマートにできなくても、言葉にクッションがあるのでそれで何とかカバーできるというわけだ。*1


それは、Wikipediaの解説にあるような「カジュアルな接客シーン」ならではのカジュアルな言葉遣いには、感じられない。あたかも、「お客さまサービスとして、『よろしいですか?』や『〜です』より丁寧で婉曲なワンランク上の表現をしております」と聞こえる。私には。
所詮便宜的な目的で作られた言葉なのに、丁寧語として格上げされているような雰囲気。それが当然のように発話され、それを当然のように受容しなくちゃならんという状況。我慢はするが微妙に鬱陶しい。
どこまでも文法に正しく意思を伝えよということではないのだ。それはちゃんと伝わっているから。余計なものまで伝えてくれなくていいから。
‥‥知覚過敏ですか?私。


たとえば方言は、その土地の生活と密着し、その土地で生きてきた血の通った言葉である。外来者には耳慣れないが、その違和感よりも、「お国言葉は生活感や情緒があっていい」とされる場合もある。「よろしかったですか?」が北海道の方言を発祥とする言い方であれば(こちらのコメント欄参照)、それは北海道に「根」をもつ場所で生きる言葉だと思う。
だがファミレスやコンビニは、そうした「地方」的なものを排除した、どこにも「根」を持たない全国共通均質無個性空間である(細かい差異はあれど)。そこで接客に特化して使われ出した特殊な言葉が「不文律」として広まって、準・標準語になりつつある。


広く使われて浸透、定着していくのが言葉である。
今更あれこれ言っても、もう遅い。後戻りはできぬのじゃ。
結局、知覚過敏の人は少し鈍感に、もとい鷹揚になって、環境に順応しなさいということのようです。



最後に、「バイト敬語」に慣れた学生諸君へ。
接客バイト以外のところで使うのは、私はお勧めしない。「ファミコン接客」感は日常会話に持ち込むべきじゃない。「こちら、こないだ出し忘れたレポートになります」とか、うっかり言わないように。そんなんがデフォルトになったら、一生ファミコンバイトから抜けられないぞ。
私も「誤字のほうがないように」あたりを気をつける。

*1:それがもしファミコン接客業以外の場でも広がっているなら、ワンクッション置いた曖昧な表現に安心感を覚える人が増えているということだろうか。それともバイトやパートや派遣が増えているから、そうなるのだろうか。