「真意」と「誤解」 - 猪瀬直樹の発言をめぐって

朝日新聞デジタル:猪瀬知事「不適切な表現、おわび」 五輪招致巡る発言 - 社会から

2020年五輪招致をめぐり、東京都の猪瀬直樹知事がインタビューで他の立候補都市を批判する趣旨の発言をしたと米ニューヨーク・タイムズ紙が報じたことについて、猪瀬知事は30日、「誤解を招く不適切な表現で、おわびしたい。認識が甘かった。発言は撤回したい」と話した。


この記事のエントリーページで支持を得ていた以下のブックマークコメント

pollyanna 「誤解を招いた」という謝り方で相手が慰撫されるケースはほとんどないと思うのだけど(「自分の意図は別のところにあったのに、お前が誤解したんだろう」という主張だから)、なんでこんなに多用されるんだろうね。

yu-kubo news 「誤解を招く不適切な表現」ってのは読者の側に(誤解した)責任を押し付けられて便利な表現だねぇ。


に、少し違和感を覚えてブコメを書いた。

ohnosakiko [政治]「誤解を招いた」場合、誤解した方は1ミリも悪くない。誤解を招いた主体は発言者だからそういう表現をした方が悪いことになる。ただ今回は誤解なんか招かれてないわけだから、その釈明自体が間違ってたという話。


「誤解」は「招いた」方が責められる。「真意」を汲み取ることは可能なのに、読解力不足で「誤解」したり、(攻撃するために)故意に「誤解」しているのでない限りは、「誤解を招いた」発言者、「誤解」をさせてしまうような表現しかできなかった方に責任があり、「誤解させられた」方には何の咎もない。そこでは「誤解」が避けられなかったのだ。
従って発言者は「誤解を招く不適切な表現で〜」という言い方によって、「自分の意図は別のところにあったのに、お前が誤解したんだろう」と「読者の側に(誤解した)責任を押し付け」ることはできない。そんなことをしようとしても、「意図もちゃんと伝えられない程、言語能力が低いのがそもそも悪い」「このくらいでわかってくれるだろうと甘えた気持ちでいるのが、そもそも間違い」ということになるだけだ。


「真意」は別にあったのに、言葉足らずや言葉の選択の誤りのために「誤解を招く」ことは、実際にある。だから定型的に過ぎるとしても「誤解を招く不適切な表現で〜」という謝り方それ自体には、問題はない。
そして、看過できないことを言われて抗議した時、「誤解を招く不適切な表現で、おわびしたい」と言われたら、まずは自分の非を認めて謝っていると捉えるべきだろう。その上で、では「真意」はどういうことだったのか聞けばいい。
仮に「いくら何でも”誤解招き過ぎ”でしょ」「その真意、今考えついたものじゃないだろな」という思いが頭を過っても、「おわびしたい」に対しては「まあ、そういうことなら‥‥」で矛を収めた方が良い場合が多い。とりわけ日常の人間関係においては。


では今回の場合、猪瀬直樹の「誤解を招く不適切な表現で〜」に対して、「自分の意図は別のところにあったのに、お前が誤解したんだろう」と「読者の側に(誤解した)責任を押し付け」ているようだと、多くの人が受取ったのはなぜか。
「自分の言葉に絶対の自信をもつ人」「他者に対して批判的な人」というイメージが猪瀬直樹にあるからか? それも一部にはあるかもしれないが、それにも増して「誤解を招く不適切な表現で〜」という物言いが、この場合は定型的を通り越してあまりにも白々しかったからだ。
言い方が白々しく嘘臭い→誠実でない→聞き手に責任転嫁している、という印象になったのではないかと思う。


「真意」と「誤解」は、どんな場合も常にセットである。私の「真意」(本当の意味)は‥‥と語られる時、そこには「誤解」(偽の意味)がまずあったことが知れる。「誤解」された言葉(偽の意味)を詳しく説明すれば、必ず「真意」(本当の意味)が現れることになっている。
ところが、猪瀬直樹の一連の発言にはそういう構造がない。どう見ても、たまたまうっかりその言い方をしてしまったというようなレベルの失言ではなかった。単なる言い間違いに見えたのが実は本心だったというフロイト的言い間違いでもない。言明すなわち「真意」の、一枚岩の言説にしか見えなかった。
だから上のエントリーページ内でも既に言われているように、多くの人は一連の発言を文字通りに受取るしかなかった。「誤解」の余地がなかったから。


それについて猪瀬直樹は当初「真意が伝わっていない」と抗弁しつつ、その「真意」の中身については具体的に説明しなかった。事実、説明のしようがなかったと思う。むしろ「真意」などというものはなく、あるのは「建前」と「本音」であり、インタビューでは「建前」、その後の雑談では「本音」が出たのだと思う。
だが批判されてその場を切り抜けるために「真意」という言葉を使ってしまったので、そのままあたかも「真意」が別にあったかのような「誤解を招く不適切な表現で〜」という釈明になったのだ。「拝啓」で始めたら「敬具」で締めるように、「真意」と言った以上は「誤解」と言わなければ。そこだけは”筋”が通っている。


異常なのは、「誤解」も起きず「真意」もないところで、言葉のセットだけが掲げられていることだ。猪瀬直樹が批判を受けて口にした「真意」と、謝罪の時に使った「誤解」は、それぞれの意味内容がからっぽのまま、言葉の形式的な繋がりのみが保たれた状態にある。
そのことの虚しさと不気味さを一番しみじみと感じ取れる立場にいるのは、作家でもある発言者本人ではないかと思う。



● 追記(5/2)
五輪招致失言:猪瀬知事「真意なかった」 - 毎日jp(毎日新聞)
「真意はなかった」。「真意」とは「本当の意味」「深い意味」「隠された意図」という意味。つまり「真意はなかった」とは発言したことがすべてであり、従って「誤解」も生じていなかったということ。
宙に浮いた言葉があっただけだった。