「真の敵」はここにいます

前に書いたこちらの記事を「強者/弱者」で改めて書いてみます。


この場合の「強者/弱者」という構図は、もちろん「弱者」視点のものです。「弱者」意識をどうにも解除できないほど内面化している者は、この構図が手放せなくなります。
その「積極的弱者」アイデンティティを保つには、「強者」に「強者」らしく振る舞ってもらい、憎悪と怨念を持続せねばなりません。「/」という断絶はあくまで維持される必要があります。


どういう振る舞いが「強者」らしいのか。「そんなに『弱者』が厭ならこうすればいいのに」というアドバイスや、「あなた達はこういう理由で『弱者』に居直っている」という批判がそれに当たります。
こうした「強者」と言われる者の中に「強者/弱者」という構図は存在しません。彼らは「弱者」などという特別枠は認めない。あるのは「努力した者/努力を怠った者」「ルールを守る者/ルールを損なう者」です。
彼らは「弱者」を踏みにじる「積極的強者」としては登場しません。あくまでフェアを主張する平等主義者であり、その言葉の「正しさ」において、結果的に「強者」たり得ています。


それに「積極的弱者」は反発します。相手の言っていることが間違っているからではなく、「正しさ」に裏書きされた「強者の言説」の形式を読み取って、反発するのです。
「強者」は「積極的弱者」の言動の内容について物申しているのに、「積極的弱者」は「強者の言説」の形式に反発するのだから、噛み合うわけがないのです。
しかし噛み合わないこと、対立と断絶こそ、「積極的弱者」が望んでいることです。
なぜなら「強者の言説」の強度が、憎悪と怨念を持続させるためのエネルギー源だからです。


「積極的弱者」にとってもっとも困ることは、こうした「強者の言説」がなくなることです。「強者の言説」がなければ構図は不可視化し、ルサンチマンも闘争のモチベーションも転覆の夢も失なわれます。
残るのはただ茫漠とした「理不尽」な現実です。そこには誰が作り出したのかわからない「不平等」が広がっているだけです。


だから「積極的弱者」にとって「真の敵」は、正論で反撃してくる「強者」ではありません。率直に嫌悪感情をぶつける者でも、「弱者」の立場で地味に議論を継続する者でも、「強者」と見られることを自覚しつつあえて「強者の言説」を批判する者でもありません。
「強者」を疑問視する一方で、「弱者」を自分の興味に引きつけて好き勝手に分析する者です。
分析というかたちを借りて「弱者」の議論に気の向いた時だけ入り込み、あれこれ理屈をつけ対立と断絶の構図をなし崩しにしようとする者です。
「中立」の立場を確保して発言するのではなく、「矛盾」や「分裂」を知りながらものを言う者です。
不本意ながら「強者」認定された者のみならず、「積極的弱者」にとって、こんな不快な存在はないでしょう。



そういうわけで前から疑問に思っているのは、id:rAdioさんはなぜ真っ先に私をヒットリストに入れてないのか?ということです。




●参照記事
同士よ、ヒットリストを共有せよ! - [セ]日露アナルファック戦争 大セックル帝国皇帝御坐所
「非モテ論議」についての個人的且つ暫定的まとめ - Ohnoblog2
「ミソジニー」といかに付き合うか - Ohnoblog2