緒形拳の出たとても変わった映画の話・・・『セックス・チェック 第二の性』

緒形拳が亡くなりましたね。
最近ふと増村保造監督の映画をまとめて観たくなり、レンタルショップで7本ほど借りてきた中に、若き日の緒形拳主演作があった。『セックス・チェック 第二の性』(大映、1968)という。ボーヴォワールの著作とは全然関係なく、原作は『オール讀物』に連載された寺内大吉という人の『すぷりんたあ』という大衆小説。
スポ根ドラマの中に半陰陽インターセックス)というモチーフが組み込まれており、とてつもなく変な映画だった。


(以下、ネタばれあり)
宮路(緒形拳)は学生時代に名スプリンターと言われた陸上選手だったが、戦争で夢を絶たれやさぐれてしまい、今はホステスのヒモに甘んじる身。大学の同期で医師の峰重の推薦で、ある実業団の女子陸上部のコーチを引き受けたその日に、峰重宅でかつてプロポーズしたことのある奥さん(小川真由美)を、旦那の出かけた隙にレイプしてしまう。
その後、戦地の中国で敵を惨殺し村の女をレイプする回想シーンが挿入され、戦争のせいでこんな鬼畜になってしまったのだということがわかる。始まって10分で意表を突かれるエグい展開。こうしたエグさがこの先ずっとついて回り、その半分以上が宮路の喋る台詞に集約されている。


宮路はすぐ反省してコーチを一旦は断るも、ひろ子(安田道代、現・大楠道代)という選手の素質に目をつけ、ひろ子オンリーのコーチに就任。自分が果たせなかったオリンピックへの夢を彼女に託して、猛特訓を始める。ここからの宮路の台詞がいちいちテンションが高い。
いきなり髭剃りをひろ子に渡し、「こいつで髭を剃れ。毎朝剃ってりゃそのうち男同様、髭が生えてくる」。「いやだ、男になるなんて」と逃げ出そうとするひろ子に、「(女子100メートル11秒の)壁を超えるには、女の中に潜んでいる男の能力を揺すり起こして、一歩でも男に近づかなきゃいかん。お前は女らしい女だから俺がお前を男に作り変える!」「スカートなんか穿くな!」「男の言葉を喋れ!」。ほとんど恫喝。
この「男に作り変える」という言葉は後で効いてくる。で、ひろ子は宮路の迫力に押されて渋々ついていく(言いつけ通り、顔に石鹸つけて産毛を剃ってるシーンまである)。


猛特訓で疲れきったひろ子に、夜、布団の上でマッサージを施しながらのやりとり。
「ひろ子、俺が好きか?」「嫌いじゃない‥‥」「なんだ、はっきり言え」。「好きだよ」とふてくされた顔で言うひろ子に、「そうだろう。いつも平気で体を揉ませているんだからな」。なんかセクハラ臭い台詞です。
「どうだい、俺たち恋人になろうぜ」「恋人?」「バカ、恋人てったって気持ちだけの話だ。俺は有名な女誑しだがお前に妙な真似はせん。第一俺はお前を男に改造しようと思ってるんだ。抱くわけがない」。ものすごく嬉しそうな緒形拳
「じゃあなぜ恋人になるんだい?」とひろ子が聞くと、「女ってやつは自分では独り立ちができん。亭主か恋人か親父か誰かに引っ張ってもらわんと生きられん。そうだな?」「そうだ」「だから俺が恋人になってやる。お前も恋人の俺を喜ばすために走れ。どんな苦労もしろ。わかったか」。
そんな理不尽な‥‥とか、それ女性蔑視じゃ‥‥という反論を一切受け付けなさそうな勢いである。「鬼の大松」と言われた女子バレーの監督の、「黙って俺についてこい」という台詞が有名になったのが、この4年前の東京オリンピックの頃。宮路は大松監督をモデルにしているのかもしれない。


ひろ子は順調にタイムを縮めるが、セックスチェックで半陰陽と診断され、出場資格を得られなくなる。18歳になっても生理がなくて内心不安だったが、それが的中してしまったと。
絶望して田舎に帰ってしまったひろ子を宮路は追っていき、「俺が証明してやる。お前が正真正銘女だってことをな!抱いてやる!」。浜辺でそのままセックスに及ぶ。「どうだった?」と恐る恐る訊ねるひろ子に、「女だよ。間違いない。ただ、ちょっと疑問をもたれやすい体なんだ」。疑問をもたれやすい‥‥? 微妙な表現。
「ひろ子、女になりてえか? 女になれたらどんなことでもするか?」。もちろんジェンダーが女のひろ子に異存はない。これまでは「男に作り変える」ことを目標としてきたけれども、今度は逆をやるというわけで、「これから毎晩お前を抱いてやる。一ヶ月も立てば立派な女になるだろう」。‥‥??
その日から、昼間は激しいトレーニング、夜は激しいセックス(トレーニングに見える)で、ある日なんと生理が訪れる。毎晩セックスに励んだ御陰で? んなことは実際ありえないだろう。でもそう思わせたいような男根中心主義な展開。
再び峰重の診断を仰ぎに行くが、証拠を見せるため峰重の前でひろ子を全裸にし、ソファでセックスしてしまうという無軌道ぶり。結局、前のは誤診で「擬半陰陽。内部にはちゃんと卵巣がある」ということになる。


さて、晴れて予選に出場したひろ子だが、なぜか記録が出ず4位に終わる。その理由を宮路はこう呟く。「女にし過ぎたせいだよ」。「女ってやつは不幸な時は爆発する。やけっぱちで突っ走るが、幸福になっちゃあおしまいだ」。ここまでくるともう期待を裏切らないなぁという感じである。
オリンピックのメダルの野望は果たせなかったが、肩を寄せ合って競技場から去る二人は、別の幸せを掴んだように見えないこともなかった。
常に斜め上を行くトンデモなストーリー、力みっぱなしの緒形拳、しかし妙にしみじみした後味。こんな変なの初めて。



以下「半陰陽」についてWikipediaより抜粋。

半陰陽の原因としては、性染色体に稀なものが見られる場合や、胎児の発達途中における母体のホルモン異常が引き起こす場合などがある。 また、モザイク体と呼ばれる、性染色体の構成の異なる細胞を併せ持つ場合もある。


男女両性の特質を中途半端に兼ね備える場合や、遺伝子上の性別と肉体的それが通常の組み合わせとは反対の場合もある。両性の性腺を兼ね備えたものを真性半陰陽、遺伝子と外見とで性別の異なるものを、仮性半陰陽と呼び、後者は性腺上の性別によって、男性仮性半陰陽、女性仮性半陰陽として区別される。


身体的には、女性仮性半陰陽の場合、膣が塞がっている場合が多く、また陰核が通常よりも肥大し、これが男性器(ペニス)と間違われることがある。 男性仮性半陰陽では、尿道下裂や停留睾丸を併せ持った状態のこともある。


半陰陽は新生児で二千人に一人の割合でわかると言われる。新生児のうちに手術が行われどちらかの性が決定されることが多いようだが、外性器の見かけだけで判断され成長して半陰陽とわかるケースもある。本人の性自認とのズレにより、深刻なアイデンティティの危機を招くこともあるらしい。
今、半陰陽を作品中で取り扱うなら、そうした複雑な位相を描くことになるだろう。
しかしこの作品はほとんどそれには触れず、ひたすら男が女を「男にするか女にするか」だけで話が進んでいく。半陰陽というモチーフは、原作の小説ではおそらく「奇想天外さ」で目を引くためと、エロ描写サービスをする場面のためにだけ選択されていたのではないかと思われる。結果、今のセックスやジェンダーの観点からすると、どこから突っ込んだらいいのか困るくらい突っ込みどころ満載の作品になったということだ。


まあ68年という時代を考えれば多少は仕方のないことかもしれないけども、増村保造も随分変わった作品撮ったものだなあ‥‥57本も撮っていれば、中にはちょっと変なのもあるのか。
68年はメキシコオリンピックの年なので、それにひっかけて大映が観客を動員しようとしたのだろうか(「メキシコオリンピックではセックスチェックが厳しい」という台詞が出てくる)。
そもそも、タイトルの「第二の性」がボーヴォワールの同名著作と同じく「女」を指しているようにしか思えない点が大変気になる。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というあのフレーズも、そこだけ取り出せば映画のストーリーと何となく一致しているようにも思える。
大映のプロデューサーか監督のどちらかが、『第二の性』という本にその有名なフレーズがあることだけ知っていて、あのタイトルをつけたのだろうか。いや増村保造は東大出のエリートだから、ボーヴォワールくらい読んでいた可能性がある(もちろんボーヴォワールが映画見たら憤死したかも)。当時の評価はどういうものだったんでしょうかね。


映画の作りは極めて真面目である。緊張感のある構図にめりはりの効いたスピーディな展開で、ダレたところはまったくない。
宮路という主人公は、増村保造が度々描いている、諦観や絶望の中で生きる目標を見つけ、それに向かってがむしゃらに邁進する自我の強い人間として人物造形されている。己の欲望にのみ従って生きるギラギラした男を演じて評価の高かった緒形拳だが、映画出演三作目にしてそれを完全に実現していると言える。
他の増村作品に比べて濡れ場が全然エロくないのは、主人公が五輪出場、メダル獲得という最終目標を達成するためのプロセスとしてしかセックスを捉えていないからだ(一応表向きは)、ということで納得できる。


ただ、この頃の大映独特のいささか大袈裟な演出のせいか、見ている最中、このテンションの高さがどこに向かっているのかよくわからなくて困った。いったいどこに連れていかれるのやら‥‥と思いつつ見終わってやっと、逆境の中の男女の愛を描いていたんだなと思った。
「男コーチにしごかれる女子」というモチーフとドラマチック過ぎる展開で思い浮かべたのが、大映系のテレビドラマ『スチュワーデス物語』(1983〜84)。調べてみたら、増村監督は映画から離れた後、『スチュワーデス物語』の監督、脚本に参加しているのだった。道理で。



ちなみに増村保造の代表作として挙げる人が多いと思われる『妻は告白する』(1961)と『清作の妻』(1965)は、文句なしの傑作です。いずれも若尾文子主演。鳥肌が立ちます。

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