pollyannaさんの記事に突っ込みを入れたAntiSepticさんの記事(これを含めて3つほど)に結構疑問ブクマが付き(記事への私のコメントはこれとこれ)、異論記事も出た中でつらつらと。
私も含めて大方の人は主旨を素直に読もうとし、AntiSepticさんはおそらく主旨とは別に抉り取ろうとしているものがあるので、その読みのスタンスによって受け取り方が違ったのでしょうか。いずれにせよ、元記事を御本人が削除されたので読み返すことができなくなり、残念です。
元エントリの主旨は無自覚だった自分の発見と懺悔にある、と読めました。(懺悔、という表現は誤解を招くかも知れませんが比喩として)
消毒先生へのリプライ。 - 犬とコロリが愉快な仲間たち
私も概ねそのように捉えた。pollyannaさんのようなエリートではなく、子どももおらず世代も旧い私だが、自身のこれまでの経緯と少し重ね合わせて読んだせいかもしれない。
若い頃にフェミニズムに人並みの関心はあったものの、「でも結局男も女もないんじゃないの?能力次第だよ。というか自分の選択次第じゃない?」「私は同じ立場にある男と同等に評価されている(はず)」と思ってやってきて、女性蔑視的振る舞いをする男やそれをあえて利用して生きている女を見ても「どうせあんなのはあと10年も経てば駆逐されているわ」と楽観的に構えていたところ、恋愛、結婚などを通じて自分が甘かったことを思い知らされ、さらに自分の中にこそ性差別が深く内面化されていたことにようやく気づき、「ちょっと反省してきます」という感じになったわけです。
そういう中で「私は他の女性とは違う(はず)」という若い頃の鼻持ちならない思い込みは、結構根深いものがあるというのも感じている。放っておくと根腐れして発酵して臭ってきそうだ。気をつけなくてはならんな。
最近出した本のあとがきの中にこう書いた。
ブログを書き始めてからネット上で女性の書いた文章や発言を読むにつけ、女は皆それぞれが「女」の研究者であり、皆それぞれが「女性問題」の現場を生きているのだということを強く感じさせられた。
しかしだからと言って、女性なら誰とでも問題を共有し合え、理解し合えるわけではないのもまた事実である。
かなり前のことだが、団塊世代の女性でなんとなく敬意を抱いていた大学の先生がいた。私がジェンダー入門の授業を担当することになったという話をしたら、その人はにこやかに言った。
「フェミニズムって不満のある人達の捌け口よね。私も夫とうまくいってなかった頃はそういう本を読んで共感したりしてたけど、その時期を過ぎたらどうでもよくなったわ」。
私はややムッとして「○○先生は女性としては社会的に大変恵まれた立場にいらっしゃるからそう思われるんでしょうけど、そうでない人はたくさんいますよね。そういうギャップはどうお考えですか?」と訊ねた。失礼かと思ったが、その時はそう言わざるを得なかった。
するとその場にいた少し若い女性の先生が、「まあ不満と言っても人それぞれですし。難しいですよねぇ差別と言っても」と笑って取りなすようなかたちになって、なんとなく「空気読めよ」的視線がこちらに飛んできてその話は終わりになった。
私はすっかり脱力した。この人達は十分にフェミニズムの恩恵を受けてそこにいるはずではないか。なのに、その程度の認識しかないのか。自分さえ良ければそれでいいのかと。
でも昔の私の意識は、その先生と大差なかったのです。今も実質的に何をしているのかと問われると、自分の問題で手一杯だったりする。
女性の権利獲得や社会進出が始まって以降、フェミニズムにずっとつきまとっている問題の一つは、いわゆる「女女格差」だ。世界規模のそれは、貧困問題や南北問題や人種の問題として語られ取り組まれてきた。国内では、環境、学歴、所得による格差の拡大が盛んに言挙げされ、それを背景とした男男格差が男女格差と同じかそれ以上に問題視されるようになって、ドメスティックな「女女格差」の実情も再認識されるという流れがある。そして、今や従来のフェミニズムでは説明しきれない複雑な現状があるのだと言われる。
だが「元の問題」が完全に消えてなくなったわけではない。
「女女格差」の一方の側にいることによって見えなくなっていたもの、それこそがpollyannaさんが対面したフェミニズムの古典的な問題だったのでしょう。
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