老父とスーパーに行く

「お父さん、また冷蔵庫のドア閉めてなかったわよ」
「閉めたよ」
「閉めてなかったの。さっきジュース出したでしょ、その時ちゃんと閉めなかったのよ」
「いや、閉めたよ」
「閉めてなかった。ほら見て、水滴びっしょりついてるじゃないの」
「僕は閉めたよ」
「閉めてないの」
「閉めた」
「閉めてない」
たまには歳老いた親の顔でも見に‥‥と用事がてら実家に行くと、また些細なことで父と母が言い合いをしている。父は「閉めたよ僕は」と言いながら、ジュースのコップを持って隣の部屋に行ってしまった。母はプリプリしながら、「じゃ、そういうことにしといてあげるわ」と呟いた。


父84歳、母72歳。この数年で父が急にボケてきたと母はこぼす。
「言ったことは言わないって言うし、やったことはしてないって言うし。いくら言っても絶対に間違いを認めようとしないのよ」
「歳なんだからしょうがないよ。適当なところで聞き流しておけば。一々反論してると疲れるし」
「でもねぇ、あんまり分からず屋だからこちらも腹が立ってねぇ」と、母は不服そうだ。「もっと素直になってくれればいいのに、歳とったらますます頑固になっちゃって」。
母の苛立つ気持ちはよくわかる。


父と母は、教師と元教え子で結婚した。父はその頑固ぶり、何事もあくまで自分が正しいと言い募って譲らない性格でもって、長年、母と娘たちの上に君臨してきた。しかし今や実権は母が握っていて、形勢は完全に逆転。そのことを父も薄々気づいてはいるのだけど、細かいところで妙に我を張りたいらしい。自分がボケ始めていることなど、決して認めたくないのだろうと思う。
そして母もなんだかんだ言いながら、父がボケてきたことをまだ完全には受け入れられない様子だ。


「お父さん、買い物行くの、サキコに乗せていってもらったら」と母が言った。家でゴロゴロしているのは健康にも良くないので、父は時々自転車に乗って、母のお使いでスーパーに買い物に行くらしい。
父を車に乗せるのは、10年ぶりくらいだろうか。助手席に座った父はすごく小さかった。もともと身長160センチくらいの小柄な人だが、今は155センチの私より小さい。いつの間に‥‥と思うくらい縮んでいる。
「安全運転でね」と父は言った。「まずそこを左折して、信号があるからそこを右折して」「赤だ。止まれだ」「はい、青だ」。お父さん、言われなくてもわかってるよ。いまだに指図したいんだね。まあいいけど。


自転車だと片道10分くらいだろうか。80過ぎの老人にとっては、ゆるやかながら坂の上り下りがあってちょっとしんどそうな道のりをスイスイと走って、スーパーに着いた。
「買うものわかってるの?」「わかってる。いつも同じだから」。カートを押して父の後をついていった。
まず野菜売り場。トマトを一つ一つひっくり返しては、完熟しているか傷みがないかどうか点検している。前、安売りの傷みかかったトマトをたくさん買って来て、母に叱られたのである。
やっと一つビニール袋に入れる。「幾つ買うの?」「四つ」。さっき見て確かめたのを忘れて何度も同じトマトをひっくり返すので、選ぶのに時間がかかる。手を出そうかと思ったが、黙って見ていることにした。


次は牛乳と野菜ジュース。父はグレープの入った野菜ジュースが好きなようだ。
鮮魚売り場を通り過ぎる時、鰻の蒲焼きのコーナーがあった。興味を引かれた様子で、父は蒲焼きのパックを手に取り眺め始めた。買うのかな?と思って見ていると、ややあってパックを戻し、右手を胸の前で小さく振ってその場を離れた。これはリストに入ってないということを思い出したらしい。


それから素麺と「味しいたけ」とキューピーごまドレッシングをカートに入れた。惣菜売り場で卯の花を買った。小さいパックと大きいパックでしばらく迷っていたが、大きい方を選んだ。「ここのお惣菜、おいしい?」「まあまあだね」。
パンコーナーで、賞味期限の迫った食パンが安売りされていた。父は立ち止まって食パンを手に取って考え、また戻した。「パンはいいの?」「うんいい」。安売りにちょっと惹かれただけのようだ。「これで全部?」。父は曖昧な顔で頷いた。
かごをレジ台に置き、父がお金を払うのを見ていた。おもむろにポケットから札入れと小銭入れを出し、お札をトレイに置いてから台の上に小銭を並べ始めた。きっちり丁度の金額を出そうと思ったようだ。しかし一円玉が足りなかった。父はまごついて適当に百円や十円をじゃらじゃらとトレイに置き、レジの人がいらない分を返してくれた。


会計が終わって袋詰めしようとしたら、父が「あっ、鰯を買うのを忘れた」と言った。「私、袋に入れてるからお父さん買ってきて」。
パックの鰯一つに結構時間がかかっている。また鰻の蒲焼きに気を取られているのかな。ようやく急ぎ足で戻ってきた父は、さっきとは別のレジの女性に「これ、追加お願いします!」と大きな声で言った。私は可笑しくて、思わず下を向いて笑ってしまった。
また小銭を並べ始めたが、またしても一円玉が足りない。父はちょっと焦って、どうしていいかわからないふうになった。後の人を待たせるのもあれなので、「千円札で払お」とお札をトレイに置いた。
鰯と一緒に、ガーナミルクチョコレートも買っていた。父は甘いものが好きだ。


帰りの車の中で父は、来年初めにまた入院しなければならないと言った。数ヶ月前に心臓の治療をしたのだが、やはりまだ完全ではなかったようだ。
「その時はサキちゃん付き添ってね。お母さん、もう来てくれんって言うから」
「来てくれるに決まってるじゃない、お母さんは」
「どうかなー」
「お父さんが頑固なことばっか言うから、意地悪でそう言っただけだよ。聞き流しておけばいいの」
「でもサキちゃんも来てね」
「行くから心配しないで」
いつの間に、こんな弱気になってしまったのだろう。家では「独裁者」として振る舞い、長年(一介の高校教師だが)「先生」としてのプライドと情熱だけを支えに生きてきた、強気で元気な父の面影は、もうどこにもない。


何十年も黙って父の言うことを聞いてきた、というか聞かされてきた母に、私は幾分同情的である。今はもはや母に頼り切りで、母なしではいられないのに、それでも我を張りたがり失態を認めない頑固な父と毎日顔を付き合わせていたら、うんざりするのも無理はないと思う。
だからこれまでの分を取り戻そうとするかのように父に対して強く出ている母を、私は責めることができない。その一方でやはり父にも、心穏やかな晩年を送ってもらいたいと思う。
出任せで両方に「聞き流しておけば」などと言ってしまったが、娘の自分に何かできることはないかと思案する今日この頃。