石を投げてる先に私はいないよ(後ろにいるのにいい加減気づけ)

AntiSepticさんのこの記事を読んで、「『若者殺しの時代』は面白いけど、東ラブでレートが上がったのかな‥‥あのドラマのメッセージは「男の選ぶ女はいつの時代も同じ」。それへの回答が00年のやまとなでしこ/今相対的にはレートは下がってる(三低とか」とブコメしたついでに、ドラマ解釈と影響について東ラブからやまとなでしこに至る記事を上げたら、やたら解釈と「Feminists」に噛み付いてきたので、「見てないものを無理矢理書いても無駄。「女がレートを上げた」ばかりに拘っても無意味」と返すと、今度は「大野さんのは女の泣き言。社会論に作品論で返してどうする。結局「女はレートを上げてる」というオレの意見に反論できてない」という長々しい記事で勝ち誇っていて笑った。


ちょっと落ち着けと言いたい。
私は「"東ラブで"レートが上がったのではなく、前からレートが上がってたところに「裸の私を見て」という高い設定をぶつけてきたので、価値観が変えられない男は対応できなかった。それを教訓にしてその後の女は恋愛・結婚対策をしている」と言っているのだ。これはこのまま最初のブコメと置き換えても、意味は変わらない。
何故わざわざ「東ラブでレートが上がったのかな」と堀井憲一郎に疑義を呈したかと言えば、東ラブがもたらした現象として堀井が書いている「自分らしい生き方は譲らない。女性であることも手放さない。どちらも叶えてくれる相手でないと恋愛しない」というスタンスは、東ラブ以前に既に出現しているからだ。「女の時代」と持ち上げられた80年代中頃からその二重基準は広がっていた(たとえば雑誌an・anを中心に。このあたりのことも最初の記事で触れている)。それは東ラブが初めて作ったものではないのだ。
東ラブの特徴は、80年代にメディアが先導し煽動したファッションとしての「自分らしい生き方」を、「裸の私を見て」と男に自分の自意識をぶつけて振られる「真実」として、初めてあからさまに描いた点にある。「どちらも」は無理だと宣告されて「女の気持ち」は揺れ動いたけれども、そう簡単に「女の行動」は変えられない。だから女性たちは右往左往したのである。
私が嘘をついていると思っているようだが、100字で書いたことを誤読されたくないから態々記事を上げたのであり、合計三つの記事で「東ラブがレートを下げた」「女は東ラブでレートを下げた」とは一言も書いていない。私がそう主張していると勝手に思い込んで"矛盾"を指摘して回っているが思い違いも甚だしい。逆に言えば、記事を読み込んでいけば思い違いが露呈するので、ブコメの第一印象に拘泥しているとも言える。


問題は「なぜ女がレートを上げ続けてきたか」*1ということだ。それには消費文化の影響だけではなく、女の立ち位置を巡る社会背景を見るべきだと指摘した。そしてそこに、「フェミの煽りと「女の時代」のかけ声に乗せられ」た「女の側の誤算」があった、と書いた。そう簡単に既得権を手放さすはずはない「男に対する見込みが甘過ぎた」ということだ。
私の説明をAntiSepticさんは「女の泣き言」と看做しているが、単に事実を書いているだけである。単純化された「モデル」に「個別の事情」を持ち出しているのではない。多くの女が当時立っていた状況を説明したに過ぎない。大野さんはアーティストだったのに結婚したとか未だにレート上げっぱなしだとか、人の「個別の事情」をgdgd気にしているのはそっちであろう。
私の記事において、ドラマ解釈と状況説明は密接に繋がっている。ドラマ受容(女の気持ち)と現実面(女の行動)がどこまで近くどうずれがあったか、それがどういう結果をもたらしたか、ちゃんと書いている。こちらが「作品論」と「社会論」を関連させてしているのに、自分がドラマを見てないものだから知らない情報を並べられて「作品論」だけをしていると勘違いし、散々見当外れのツッコミを入れた後で「そんなものには乗らなければいいだけの話であり、寝ていても勝てるのである」とは聞いて呆れる。
じゃあ乗らずに寝ていればよかったのに、何故喰い付いていてきた。ろくに見てないドラマについて当てずっぽうで言ったことが的を外していたとわかった途端、オレは最初からそんな話はしていない、か。


堀井憲一郎の『若者殺しの時代』は主に消費方面に的を絞って書かれており、それはそれで明快な社会論として成立している。絞らねば「若者は何に殺されてきたのか」というテーマがぼやけてしまう。これまでの記事を通して、堀井の論旨を私は一度も否定していない。結論にも同意している。
ただ「女の子たちがレートを上げて男の子を散々振り回してきた」という論調には、変わっていく女への男の恐れと不安とがあると最初の記事に書いた。堀井の社会分析は見事だが、「女の子」についての語りには既得権を脅かされて戸惑っている「男の子」の「被害妄想」が垣間見える(私の世代にもこういう男は多いので非常によくわかる)。AntiSepticさんがそれに無批判に乗っかっていたから、その「語り口」を指摘したのである。
話法に語り手が言語化できてない意識を見るのは、AntiSepticさん自身がしょっちゅう他人のエントリを肴にしてやってることであるし、論旨に賛同した上で別の視点をぶつけるのも普通のことである。80〜00年代の女の「レート」とその社会背景について、「モデルを構築」するために堀井があえて省いたことを書いて何が悪いのだ。
そもそも「女がレートを上げたか下げたか」などという単純な論でなど、私は最初から争っていない。そんな議論は女を性的商品とだけ見ている男の間でやってくれ。ではなく、もし「男女の結び付きが困難に」なったこの社会について少し突っ込んで考えたいのなら、別の視点も必要であろうと言っているのである。話を先に進めようとして書いていることを、堀井に準拠した自分の主張を否定しようとしていると思い込み、(文句があるなら)「まず堀井に言うが良い」などと突っ返した気になっているのは視野狭窄でしかない。


後半は先日の記事の個別論破という名の揚げ足取り*2 に終始しているようだが、AntiSepticさんが言及を避けたところが一カ所ある。

だが近代資本主義の行き着くところの高度な消費社会の到来と近代思想が生み出したフェミニズムの影響は避けられなかったのだから、どっちにしたって「男女の結び付き」は「困難に」なったのである。それに長引く不況が重なって、晩婚化と少子化が進行した。
ならばこれまで男女は何で結び付いていたのか、そこに戻れる道はあるのか、もしないとしたらどんな道があるか、とくと考える良い機会に恵まれたと思えばいい。

堀井とAntiSepticさんの論旨を汲んだ上で、今もつべき認識を書いた。「社会論を」と言うなら、何故ここをスルーするのか。


「男女の結び付きが困難になった」のは、「年頃になった男女は結婚し家庭を築き子供を産み育てるべきである」という規範が崩壊したからに他ならない。それは、「近代資本主義の行き着くところの高度な消費社会の到来と近代思想が生み出したフェミニズムの影響」、つまり結婚しなくても暮らしていける物質的に豊かで便利な社会の実現と、女性の社会進出に伴う経済力の獲得によるものだ(他にもあるだろうが、大きく言えばこの2つ)。
豊かで便利な社会は、それまで家族がもっていた意味を希薄化し、個人の自由を最大化した。それが嵩じれば「収入と時間を家族に奪われるのは惜しい。すべて自分の楽しみ、自分の成長のために使いたい」とか、「女とつき合うのは時間と金の無駄、趣味の世界に没頭していた方がいい」という願望が生まれてくる。
経済力をもった女は男に依存しなくてよくなるし、そこまでもてない女性も、昔より豊かになった親の資産に依存すれば結婚しなくて済む。唯一、子供が欲しい女性が出産限界年齢を横目に見ながら必死になるが、それもなるべく経済的に恵まれた環境で子育てしたいわけだから、相手への要求をそう低くはできない。そんなのは「打算」であって「愛」ではない、人は経済状況だけでは動かないと言うだろうが、これだけ大人たちが何かにつけて「リスクだメリットだ」と言ってきた社会で育った子供が、大人の価値観を受け継いだ大人になるのは当然だろう。


こんなことはとっくにわかっていることだ。そして避けられなかった事態だ。それは、敗戦後の日本が、戦勝国からの遅れを取り戻し、経済的繁栄と欧米先進国並みの近代国家の完成を早急に果たさんとした段階で、半分以上決まっていた。その結果、「みな幸せになったかというと、ちっともそうはなっていない」のは、自業自得、因果応報である。
原因の一つを指摘した小倉の論を註として入れておいたが、それも無視している。*3 現代の社会の様相を解き明かすには戦前から考えねば意味がないのに、「80年代以降、女がレートを上げ続けて誰も幸せにならなかった」というところだけに目が釘付けになっていて、議論に勝つか負けるかしか頭にないから、「社会論」「社会論」と言いながら堀井の論を自分なりに検討して深めることもできないのである。
「昔は男がレートを下げていたから強くなった女がレートを上げたのはわかるが、いつまでも上げっぱなしでは自分の首を絞めるだけでなく、男にも被害が及んで皆が幸せになれなくて困るので考え方を改めるべき」と言いたいだけなら、それは社会論ではなく愚痴である。


「幸せ」とは物質的な満たされ感や個人の自由の拡大ではなく、人間関係に基礎を置くと私は考える。人間関係の最小単位は愛情で結ばれた親密圏だ。親密圏は普通「家族」を指すが、「幸せ」を感じられない人が増えたとすれば、戦後の日本が経済的繁栄と欧米並みの近代化を早急に果たさんとした過程で半ば必然的に引き起こされた男女のすれ違いや従来の家族が崩壊するスピードに、それ以外の親密圏の構築が間に合わなかったからだ。従って求められるのは男女の結び付きではなく、それ以前の人間関係の見直しである。ヘテロ男女間であれば、結婚という落としどころやその条件を一旦外して互いに向き合い関係性を作っていくというところから丁寧に始める以外にはない。
‥‥と優等生的な答えを書いてみたが、「男女の結び付きが困難になった」ことを私は特別憂えてはいない。
そもそも男女の結び付きはこれまでさまざまな約束事に助けられていただけであって、本来的に困難なものである。昔から男は「女がわからない」と、女は「男がわかってくれない」と愚痴を垂れてきた。これからもそうだろう。
それでも恋愛する人はするし、結婚する人はする。したくない人は別にいいわけだし、できない人は自分で手を打たなきゃそのままだ。いつまで経ってもレートを下げない女が結婚できなくて困っても、下げた振りして近づいてきた女に脇の甘い男が騙されても、私は「バカだねぇ」としか思わない(ただ、将来のある若者にはできる限りの知恵を授けているけどね)。


女が少し女の状況について説明しただけで「女の泣き言」と断定し、人が反応して記事を書くと自分を「論破できているか否か」だけでしか文章を読まないAntiSepticさんが、所謂「男の子」である(あるいは意図的にそれをやっている)のは言うまでもないことだが、こっちでは泣き言言っていたくせに、ここでは「さとみを仮装した桜子の方がフェミよりもずっといいですw」と、相変わらずフェミニストを引き合いに出して揶揄しているのは何故かを最後に書こう。
フェミニズムジェンダー論関連の本を殆ど読んでないらしいAntiSepticさんがフェミニストに抱いているのは、「男に尻尾を振る同性と自らを峻別して」レートをやたら高くしているわりには、何かにつけて「女の気持ちをわかってくれない」とピイピイ泣き言を垂れたり、「所詮、男は女の話を聞く耳をもたない」とプリプリ怒り出したり、まあその程度の貧困なイメージであろう。これまでの記述からして。
で、私と議論になって面倒臭くなると、そのフェミニスト像を私に当てはめて揶揄することで否定し、一丁片付いたと安心したいわけだ。これで私が未婚だったりしたらもっと安心できるだろう。フェミという高過ぎるレートを掲げた女には男が寄ってこない、そんなフェミニストの男女論など聞くに値せぬ、という自分の意見を証明できるから。
しかしAntiSepticさんが石を投げている竹薮の中にいるのは、フェミニストではなく「フェミニスト」という札を下げた案山子である。それを作ったのは自分だということを忘れている。私はそこにいない。あなたの後ろで「何が言いたいんだ、この人は?」と思いながら見ている。
一方で「エロゲバカ」をdisり女の性の商品化を憂え、一方で論戦相手を「ババア」と呼びジェンダー規範を無邪気に肯定する人が、何を考えているのかきちんと知りたいから議論につき合ったまでである。

*1:堀井が「レート」という言葉を使っているのに合わせて書いているが、文脈によって「自分の商品価値」と「男への要求」と二種類の意味になる。

*2:一部を挙げると、「新・専業主婦志向」の理解と「ジェンダーにしたって元々それは「仮装」するものであり」のジェンダー理解は明らかに間違っている。少しは概念を知ってから書いてほしい。「そもそも女のレートが下げられていたのは誰のせいなのかという話であり」って男社会に決まっているが、そんな当たり前過ぎる話なんかしていたか? あと「いつか王子様が」は玉の輿願望であり、そのためには男にすぐ媚びる安い女ではなく「お姫様」にならねばならないという意味で「レートを上げろ」なのだ。

*3:付け加えると、小倉は「日・独・伊は戦前から女に母性と主婦性を強要する国でもあった」としている。ジェンダー規範がとりわけ強く、男がエバっていたということだ。であればその反動が強いのも頷ける。