『原節子、号泣す』を読む

小津安二郎は、その監督生涯を通して一番多く女優を泣かせた監督であった。
‥‥‥という一文で始まるユニークな小津安二郎論、『原節子、号泣す』(末延芳晴、集英社新書、2014)を読んだ。


原節子と言えば戦前から戦後にかけて夥しい数の映画に出演した大スターで、「永遠の処女」「日本のグレタ・ガルボ」などと呼ばれ、小津監督の亡くなった1963年に43歳で引退して鎌倉に引きこもってからは一切のメディアに出ないまま、94歳に至る今、生ける伝説となっている女優。
本書は、小津映画のミューズとも言われた原節子という不世出の女優の「泣く演技」の分析を通して、小津安二郎の思想に迫っていくという内容だ。筆者の丁寧で熱の籠った筆致に強い牽引力があり、ミステリーを読むようにワクワクしながら読み進めることができた。以下、内容をおおまかに紹介。


現存する37本の小津作品のうち、監督が女優に泣かせている作品は30本に上るという。
第一章「ほとんどの小津映画で女優たちは泣いた」で筆者は、「泣く」という演技の難しさと情動喚起力について述べつつ印象的な場面を紹介し、第二章「小津映画の固有の主題と構造」では、繰返し描かれる家族のさまざまな関係性についてカテゴライズしながら共通項を見ていく。
個々の「泣く」場面への注視から、次第にフレームを大きくしていって、小津作品の全体を貫くテーマへと話を進めていく展開が巧い。


第三章「思想としての小津映画」では、小津ほど「幸福なる家族の共同関係性」に拘って描いた作家はいないとした上で、「幸福の共同体が崩壊し、大いなる喪失(死)と再生のドラマが描かれるのは、必ず幸福の関係が限界に達し、それ以上その関係が続けば、関係そのものの腐敗が始まり、異臭が立ち昇ってくる、その直前においてであ」り、「そのギリギリの臨界点において、原節子は幸福の共同体から去っていくことを決意し、崩壊がまさに始まろうとする直前に、必ず号泣している」と指摘する。
そしてこれまで小津の映画について、固定カメラやローアングル、俳優の正面ショットや風景などの無機的スティールショット、インテリアや小物への拘り、そうした語法や技法を駆使して表現された庶民生活の感情や美意識といったものについてはよく論じられてきたが、小津映画の最高峰である『晩春』『麦秋』『東京物語』の「紀子三部作」で原節子が見せた「号泣」の演技を通して明確に現れることとなった小津の思想については、まだ全面的に解き明かされていないとする。
小津安二郎没後50余年。関連のテキスト、評論は世界中に山ほどあり、かなり語り尽くされていると思われる中での、この宣言。相当深い確信を持っていないと書けないはず。ますます先に期待を持たせる。


次の第四章「原節子は映画の中でいかに泣いたか」では、原が小津映画以外で対照的な「泣く」演技を見せた二つの映画『河内山宗俊』(山中貞雄、1936)と『上海陸戦隊』(熊谷久虎、1939)を取り上げ、弟のために身売りを決心する娘を演じた前者では「永遠の処女」というイメージを不動のものにしたが、中国人(当時は「敵国人」)の孤児の少女を演じた後者では、彼女の「ワイルドで反社会的な原質的本性」が発揮されていると指摘。
小津はそれを見抜いた上で、『晩春』『麦秋』『東京物語』といった「一見温和で平静な作品」において原の演技を厳しく制限し、彼女の「内に蓄積させた暴力的エネルギー」を最後に「号泣するという形で爆発的に放出させた」。
筆者はこれまで巷に流布している原節子のイメージを、緻密な検討と鋭い洞察によって覆していく。こんなスリリングな原節子論(及び小津映画論)、今まで見たことがない。


さて、小津映画における原の演技の具体的な分析に進む前に置かれた、第五章「原節子をめぐる小津と黒澤明の壮絶な闘い」。この章がまた滅法面白い。
もちろん、小津と黒澤が原節子を取り合ったという下世話な話ではない。小津は、黒澤明の『我が青春に悔いなし』(1946)における「体当たり演技」で原節子の限界を見極め、まったく別の方向で彼女の資質を生かすかたちで『晩春』(1949)を構想したという。
『晩春』の2年後、黒澤は『白痴』(1951)で原を再度ヒロインに起用。彼女は、日本人離れした容貌とスケール感を生かした緊張感溢れる迫真の演技で応じた。エネルギーを封印し最後に放出させる小津の方法とは180度違い、圧倒的な情動全開のドラマの中で、原節子の持つ「ワイルドな反社会性」を引き出した黒澤明。筆者に言わせれば、それは「俺はあんたと違って、ここまでやるよ!」ということらしい。
しかし小津はそれを受け止めた上で、『晩春』と同じく、エネルギー封じ込め(後に爆発)作戦で『麦秋』(1951)と『東京物語』(1953)を撮る。「原節子を生かすには、これしかないよ」ということで。
こうした闘いが二人の監督の間で意識的にされたということではなく、そう読み取ることができるという話なのだが、小津はともかく黒澤は意識していたのではないかというのが筆者の推論。その証拠に、『麦秋』『東京物語』と原主演の傑作を立て続けに見せられて以降、黒澤明原節子を起用することはなくなるのである。


この後は、第六章と第七章で『晩春』、第八章で『麦秋』、第九章で『東京物語』と続く中でいよいよ、原節子の「号泣」シーンを核とした詳細な作品、演技分析がなされ、第十章でその後の原出演小津映画について論じられている。最後の作品『小早川家の秋』(1961)における「涙を見せない」原節子論は感動的だ。
六〜九章が本書のハイライトとなる部分。つまらぬ要約はもうやめておくが、一点だけ。
『晩春』の中のあるシーンについて、原節子演じる娘が笠智衆演じる父に対して「性的結合願望」を抱いているのではないかという推測がこれまでなされてきた(高橋治の『絢爛たる影絵』、蓮實重彦の『監督 小津安二郎』など)ことに対し、「誤読」と退け、もっと大胆な読み取りをしているところが、個人的には本書の白眉である。
筆者が原節子の中に見ているのは、父親が大好きでお嫁に行きたくない娘の「近親相姦」願望などではなく、もっとねじくれた「復讐」感情。前後のシーンの分析と合わせて、説得力があった。例の「壷」についても「あっ、そういう解釈があったか」と思わされた。


小津映画の入門書としても優れていると思う。読むに当たってはやはり『晩春』『麦秋』『東京物語』を観ていることが条件になるが、それ以外に『東京暮色』『秋日和』『小早川家の秋』、上述した黒澤明の作品、山中貞雄の『河内山宗俊』(15歳の原節子がめちゃくちゃ可憐)などを観ておくと、もっと楽しめる。


原節子、号泣す (集英社新書)

原節子、号泣す (集英社新書)


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