婆は二度死ぬ‥‥映画『デンデラ』を観た


「姥捨て山に捨てられた婆さん達が生き残って共同体を作るんだと」
「ほう。そんで鬼婆になって通りかかった村人を取って食うのかえ?」
「そこまでは知らん。浅丘ルリ子主演で、草笛光子倍賞美津子山本陽子、白川和子‥‥へえー豪華だな」
浅丘ルリ子はちゃんとババアを演じられるんかえ?」
などという会話を夫と交わした翌日、原作は未読なのでほとんど前知識のないまま、『デンデラ』を観に行った。


監督は『楢山節考』(1983)を撮った今村昌平の子息、天願大介。「姥捨て山には、続きがあった。」というキャッチコピーに小汚い風体のババア集団、いや老けメイクの大女優達がずらりと並んでこちらを睨みつけているというポスターは、そこそこ迫力がある(公式HP参照)。若い人は見に来なさそうである。案の定、周囲を見渡すと定年退職した感じの中高年の夫婦や中高年の女性ばかりだ。


(以下ネタばれあり)
70歳になった老人は「お山参り」として山奥に捨てられる風習のある貧しい寒村。雪深い山の中に置き去りにされ寒さで失神していた斎藤カユ(浅丘ルリ子*1は、山の反対側で「デンデラ」という集落を作って共同生活している先輩の老婆達に助けられる。ボロを纏い原始的な狩猟生活をしながら過酷な環境でサバイバルしている老婆達の生きることへの執着を目の当たりにし、あのまま死んで「極楽浄土」に行きたかった、誰もがそう願うものだと思っていたカユは衝撃を受ける。
50人いる老婆達の長は最年長100歳の三ツ屋メイ(草笛光子)。30年前に捨てられてたった一人で生き延び、「お山参り」の老婆を一人ずつ助けて「デンデラ」を作ってきた彼女は、自分を捨てた村に激しい復讐心を抱いており、襲撃計画を練っている。寝込みを襲って男は皆殺し、女子どもは抵抗しなければ「デンデラ」に引き入れるというメイのプランに頷く老婆達。彼女達は粗末な武器を作り毎日襲撃の「訓練」までしている。
一方、家族の一人が掟を破ったせいで村人にリンチされ片目を失っている椎名マサリ(倍賞美津子)は、殺し合いなどせず「デンデラ」を村より住み良くすることが村への仕返しになるという穏健な立場。
村ではただ掟に従い何も考えず生きてきたように見える老婆達の「一度死んだ」後の今の姿に、己の価値観を揺るがされる中で、自分はどう生きたいのかとカユは自問自答する。


つまり、それまで規範に縛られていた女が自分の生き方を問い直すという類いの「フェミニズム映画」ですか?草笛光子がラディカルフェミの中の過激派で倍賞美津子がリベラルフェミで‥‥とか思いながら見ていたら、「デンデラ」は子熊を連れた飢えた雌熊の襲来を受けて村襲撃どころではなくなり、襲撃派と穏健派は団結して熊に抗戦するも、所詮は鉄砲も持たない婆さん集団、ガオォと吠える熊に次々と食い殺されて血しぶきが飛び散るという、若干スプラッターな展開に。
「まあ、お婆さん達タフだわねー」てな感じで見ていた隣のおばさん二人連れがドン引きしているのが伝わってきた。
それまでの「村に復讐するか、共同体を維持存続させるか」という問題はどっかに行ってしまい、後半執拗に出てくるのは、熊。生き残った老婆達vs子どもを殺され飢えて猛り狂った雌熊では、どう見ても熊優勢。ついに「デンデラ」を出ることを決意したカユが力を振り絞って熊を村の近くまで誘導する。襲われる村人、響く銃声、熊と向き合う婆さんカユ‥‥。


話は「捨てられた老婆(女)vs村(男社会)」ではなく、最後完全に「メスvsメス」になっている。厳しい自然界に放り出された人間のメスと、厳しい自然界で生きてきた獣のメス。村という人間社会を出たところで、女は「獣」である自分と出合ったということか。つまりあの雌熊は「女」のメタファー?
と勝手に解釈してみた。
「老人や社会から弾き出された者がどう生きたらいいかというテーマじゃねえの?」と夫は言った。「しかしババアにもいろいろいるが、結局烏合の衆で何もできんって話か」。そんな実も蓋もない。テレビで予告編見て、なんだか年寄りを元気づけるような「いい話」っぽい感じと思って観にきた中高年の人達は、どんな「元気」を貰えたんでしょうかね。と微妙な顔つきで帰っていくお客さんを見て思った。


で、佐藤友哉の原作を買って読んだら、これが実に面白くて一気に読み終えた。もっと早く読むべきだった。

デンデラ

デンデラ


映画がやや単調なのは、小説で詳細に描かれている一つの共同体の中で生まれるさまざまな価値観のぶつかり合い、主人公の最後の決断に至る迷いや葛藤が表現しきれていないためだろう。重要なプロットがいくつか省略されている代わりに、三ツ屋メイの一人サバイバルシーンや雪崩シーンがあり、グロい場面は小説よりかなり控えめで、ラストも少し違う。
三ツ屋メイも椎名マサリも死亡し、残ったわずか5、6人の老婆達を守るため熊を村に誘導する主人公は、「村に着く前に自分が熊に食い殺されるか、村に着いて熊が村人を食い殺すか、村人が熊を撃ち殺すか」という究極のゲームに賭けているのだが、映画より小説の方がその緊張が強く伝わってくる。


なけなしの力を振り絞って必死に走る老婆と、「食い殺せ」という本能に従って必死に走る熊。両者がほぼ並んで走っているところで小説は終わる。これ以上はないほど悲惨な展開にも関わらず、その疾走の場面の不思議な高揚感と開放感が爽やかだ。絶望的だが、爽やか。
それは主人公が、70年の人生で初めて自分で設定した大目標に向かってひた走っているところから来る。普通に考えれば今までで一番危機的な場面で、老婆は生まれて初めて自分の生を生きているという充実感に包まれている。


これが映画だと、熊が最後に老婆を飛び越して村人の一人を襲ったり、浅丘ルリ子が熊に向かって台詞を言ったり、モノローグがあったりして、まとまりをつけている感じなのがやや平凡に思える。小説のような抜けが感じられない。
ただ、熊(獣)と「女」を重ねているという点では、映画と小説は一致している。小説で比較的丁寧に描かれている雌熊の、本能と直結した「心」の動きや行動を映画で再現するのは困難で、それで幾分説明的なラストになったのではないかと思った。


天願大介は、去年公開された映画『十三人の刺客』(三池崇史監督)の脚本を書いている(レビューはこちら)。
あの作品で後半妙にクローズアップされているのが、本能に生きる獣のような山の民、木賀小弥太だ。島田新左衛門vs鬼頭半衛兵の「正義vs忠義」の戦いに虚しさを見た主人公の島田新六郎が、生き残った小弥太から最後に何らかのインスピレーションを受けていたのは明らかだった。
これを『デンデラ』に当て嵌めると、島田新左衛門vs鬼頭半衛兵=三ツ屋メイvs椎名マサリ(一つの社会において必ず現れる対立項。実は補完的)、小弥太=熊、新六郎=斎藤カユということになろうか。
十三人の刺客』では、激動の幕末に手本とすべき規範を失った青年はこれから自分の生き方を模索せねばならないだろう、ということが示唆されているのに対し、『デンデラ』では、共同体の規範通りに生きて一度人生を終えた老婆が、その後自分の剥き出しの生に直面している。


そういうわけで、私の読み取ったこの作品のテーマ。いや、キャッチコピーにしてほしかった口上。
"婆は二度死ぬ。一度目は「人間」として。二度目は「獣」として。"

*1:頑張っているがどこか「女優」の見え隠れする老けメイクだった。存在感は草笛光子に食われ気味。それにしても日頃のお顔のメンテナンスがしっかりしているせいか、あまりな"汚な作り"は避けているせいか、70歳以上(特に80歳以上)を演じるには無理があるのでは?どう見てもそうは見えないよ、という人がちらほら。