犬の生

先々週の木曜日、飼い犬が寝たきり介護状態になったを書いた。その後、食がどんどん細くなっていき、先週の火曜日には餌を受けつけなくなった。水を少し飲むだけ。一時期は12キロあった体重が8キロまで落ちた。
かかりつけの獣医は、「血液検査はほとんど異常なし。もうこれは老衰でしょう。17歳だしねぇ」と言った。5年前にフィラリアに罹って死にかけたために心臓が丈夫ではないので、負担のかかる点滴はできないらしい。栄養価の高い缶詰の肉汁などを歯の間から注入するくらいしか、手だてがない。それが呼び水になって食欲が戻ればいいが、そうでなければあと一週間から10日が山場だと言われた。


その日から、スープに近い犬用流動食(ペットの介護食があるのを初めて知った)を、注入器で奥歯の隙間から入れ始めた。ゼリー状のは食べようとしないので、それも水で薄めてスープにして飲ませた。ほんの二口くらいで飲むのをやめてしまう。一日にやっと10ccくらいが限度。
それでも栄養を摂るとなんとなく体に力が戻るのか、寝たままふと首を起してあたりを眺めたりしている。ずっと外で飼っていたのを玄関に寝かせているので、「いつもと風景が違うな」と思っているように見える。


自分の体重を四肢で支えることはできないので、時々、胴体を抱えて立っているような状態にしてみた。そういう体勢になると犬は、地面に軽く触れている脚を動かして、前に進もうとした。こんなに衰えても歩きたがることに驚いた。この犬、回復するつもりでいるんじゃないかと思った。
それならこちらも犬に合わせてやろうと思い、「じゃあコロ、リハビリしよう」と、一日2回くらい、庭で歩く真似事をさせた。


数日経って、首が上がらなくなった。おしっこがしたくなると「ヒャン、ヒャン」言っていた声も、ふつりと出なくなった。脚も動かせなくなったので「リハビリ」は止め、寝かせた体を時々マッサージしたりゆっくりブラッシングしたりした。
以前からの白内障が進行し、白濁した目の角膜が半分流れて目脂と共に溜り、かなり悲惨なことになっている。あまり触らない方がいいと思いつつ、時々目からはみ出しているのを拭う。もうほとんど見えていないだろうが、私が動くと色の薄くなった黒目が瞬きし少し動くので、姿を捉えようとしているのかもしれない。


一日80ccくらいの水と10ccくらいの流動食で、犬は生きていた。「コロは?」「まだ生きてる」が、夫と電話で喋る最初の言葉になった。この週末一杯かなぁと思いながら週末が過ぎて、今週に入った。
仕事に出かける前には「コロ、帰ってくるまで死なないでね」と言い、仕事が終わると飛んで帰る。まだ生きてる。まだ死んでない。思わず犬を撫でながら、「ありがとう」という言葉が口から出た。別に私のために生きていたんじゃないけど。
一昨日は、やっとちょっぴりウンコをした。飼い猫のよりも小さい。でもウンコをしてくれたことが嬉しくて、しばらくそれをしみじみと眺めた。
痩せて、背骨と腰骨が浮かび上がってきた。ぐったりしている体を抱き起こしてみると、びっくりするほど薄くなっていた。顔も一回り小さく細く、まるで狐のようだ。


やがて、嚥下に時間がかかるようになった。奥歯の間から流動食を注ぐと、舌で弱々しくピチャピチャしてからようやくのことでゴクンと呑み込む。水も同様だ。喉の鳴る音と共に、肩と耳がビクンと動く。体全体を使ってやっと呑み込んでいるようだ。そのうち舌のピチャピチャがなくなった。時々呑み込めなくて、口の反対側からダダ漏れになっている。
3日ほど前から、息遣いが荒くなってきた。玄関に入ると、フーッ、フーッ、という鼻息が聞こえる。肉の落ちたあばらが上下する。世話をする間、私はずっと犬に話しかけている。「だいじょうぶよ」と何度も言った。何ひとつ大丈夫ではないんだけれども。


犬は何を考えているのだろうか。しんどいから、このまま死なせてくれと思っているのだろうか。
いっそ、もう何も与えないでそっとして、静かに死なせてやった方がいいのだろうか。
自分が死にかけた老犬を見ているのが辛いから、こんなことを考えてしまうのだろうか。


犬は懸命に呑み込む。しばらく休んでから与えると、また懸命に呑み込む。
そして昨夜、犬は渾身の力を振り絞って首を持ち上げようとした。前脚が突っ張り、顔が小刻みに震えた。驚いて、「いいんだよ無理しなくて」と言った。すっかり人相(犬相か)の変わった痩せた頭部を両手で挟み込むと、ほとんど光を失い白っぽく淀んだ沼のような瞳が私の方を見ている。
何なんだろう、この犬は。どこまで頑張るつもりなんだろう。なぜ、そんなにも生きようとするんだろう。
谷口ジローの『犬を飼う』で同じ台詞があったのを思い出した。「なぜ、こんなになってまで、生きようとするんだ?」「なぜ、こんなにがんばるんだ、タム!?」。死に直面しながら生きながらえる犬に対して、飼い主が思うことは似てくるようだ。


飼い主は、犬に人の姿を重ねる。寝たきりでゴハンも食べられずガリガリに痩せ細っていく苦しみから、できれば早く解放してやりたい。自分が当事者なら、早く楽になりたいと思うかもしれない。死にかかっているのに、渾身の力など振り絞れない。生きる希望がないところで無理して何になろう。
生きる希望どころか生きる目的を失ったら、人間は気力をなくす。こんな虚しい思いまでして、なぜ生きていかねばならないのかと思う。では死ねるかというとなかなか死ねない。死を受け入れるまでにもさまざまな「なぜ?」があり、葛藤がある。人は自分の生について、いつも答えの出ない「なぜ?」を問う。
でも犬に「なぜ?」はない。そもそも犬に生きる目的はない。生きること自体が目的だ。衰え、限りなく死に接近しながら、犬はただ生の方しか向いていないように見える。生の方を向きながら、黙ってその身を死に委ねている。


獣医の言った「一週間から10日」を過ぎた。
犬はまだ生きている。



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●追記
16日昼過ぎ頃から呼吸が早くなり、前脚の痙攣が止まらなくなった。
午後6時半過ぎ、永眠した。