父が入居している有料老人ホームの、介護士の人に聞いた話である。
「施設に入って認知症が急速に進むのは、女性より男性です。その中でも多いのが、会社の社長さんとか学校の先生。社会的には「偉い立場」で、ずっとこれまで自分が指図する側で来た人ですね。それが、環境が変わって人から看てもらうようになった時、気持ち的に自分の立場を受け入れられなくて、おかしくなってしまう」。
そうでしょうとも‥‥と、父を見ていて思った。
社長さんはどうなのか知らないが、教師は現在、大昔に言われたような「偉い人」ではない。「先生」が「先生」というだけで一応尊敬の眼差しで見られた時代は、とうに過ぎ去った。でも今、老人ホームにいる人は「先生がまだ偉かった時代」を生きてきた人である。89歳の父はまさにその典型だろう。
高校教師を長年勤め、頭のてっぺんから足の先までガチガチの先生気質だった父。家族の上にも父親兼教師として君臨してきた父。ボケ始めてますます頑迷になっていった父。
その父は、ホーム入居半年で、言葉と記憶をほぼ失った。
男ジェンダーと古典的な先生気質の共通項は、何か。「物事を決めるのは自分」「上に立っているのは自分」という支配者的な意識だ。会社の社長など、多くの人を束ねリーダーシップを発揮しなければならない職業でも同じだろう。その自意識が強烈なプライドとなって、長い職業生活の支えになってきた人は多いだろう。
ところが、周囲の人に世話してもらわねばならない立場になり、自分に関する大事な物事が周囲の人によって決められていく中で、何の力もなくただそれに唯々諾々と従うしかない*1‥‥というふうに、自分の立場や環境が激変してしまうと、それに気持ちがついていけず、現実を否認し、壊れ始める。
父の言うことがおかしくなりやがて言葉が出なくなった時、教師としての誇りで岩盤のように強固に凝り固まっていた父の心に、無数の細かい亀裂が入っていくのが目に見えるような気がした。これはもう元には戻れないと思った。
今年の春、ホームヘルパーの実習で幾つかの介護施設に行った。印象に残ったのは、女性の方がコミュニケーションが活発で、いろいろな作業を積極的にやる人が多いということだ。こちらが挨拶をして返してくれたり、話しかけてくるのも全員女性。
男性でも、「どんなお仕事なさってたのか、お話伺ってもいいですか」などと水を向けると結構喋る人はいるものの、レクリエーションの時間は概して消極的で、「何でこんなことせにゃならんのだ」とばかりにムッツリとそっぽを向いている人が時々いた。こういう人は認知症が進みやすいと言われる。
そもそも老人介護施設において、男性は女性よりずっと人数が少ない。多くが自宅で妻に介護されて亡くなるからだろう。父のいるホームも同様で、女性たちの中に点在している男性は、食堂でも大抵いつも一人きりでぽつねんとしている。
女性同士では時々噛み合わないながらも言葉を交わしていたりする(喧嘩もある)が、男性同士でやりとりしているのは見たことがない。終の住処で、せめて数少ない同性と仲良くし、残りの人生を少しでも居心地良く過ごそうとするのかと思っていたのだが、全く違っていた。そういう発想は女性のもののようだ。
もともと、外で仕事をし家のことは妻任せだったような男性は、環境に柔軟に対応し何でもないコミュニケーションを楽しむという習慣がない。特に今、老人ホームにいる世代の男性は戦後の高度経済成長の中で仕事に邁進した会社人間で、仕事を離れたところでの人間関係が貧弱だった人が多いのではないかと思う。
一方その世代の女性は、家事・子育て・近所のおつきあいなどを同時にこなしつつ、同性で集まっておしゃべりしたり地域の活動をしたり、子どもとの関係も夫よりは密だったりして、日常的にさまざまな水準のコミュニケーションを体験している。相手との距離を測り、共感を旨とする人間関係を維持しようという習慣も身に付いている。
もちろんそれに当てはまらない人はいるだろうから、全体的な傾向としての話である。こうした男女の社会的位相の違いがある上に、社長や教師など特定の職業で醸成されたメンタリティが加わることによって、「上に立つ仕事」を務めた老人男性特有の難しさが浮かび上がってくるのだ。
少し前、母が父を訪ねて行った時、食堂に新しい入居者の男性がいた。半身不随だがまだ矍鑠とした雰囲気で、見舞いに来ていた奥さんに新聞を持たせ、「次、16面!」「次、32面!」と大きな声で命じ、その度に奥さんは手早く新聞を畳み直して夫の前に差し出す、ということをやっていたという。
施設のスタッフが「先生」と呼びかけていたので、母は「この方も学校の先生だったのね。校長先生かしら」と思ったが、後で聞いたら元は医師でどこかの院長だった。「先生」違いだったが、「上に立つ」意識が強い点では近い。
別の日に母が行くと、先日自分の奥さんが来たことはすっかり忘れて「ちっとも見舞いに来ん」と怒っていた。母が「お元気そうですね」と話しかけると居ずまいを正し、「私は◯◯科の医者をやっておりましてな。あなたはあまり顔色が良くないようだ。具合の悪いところがあれば見てあげますからいつでも来なさい」と言ったそうだ。
父は上記の「先生」のような経緯を経て言葉が出なくなり、終日無言でほとんど目を閉じたままになった。
父の口から時々発せられるのは、「アイ!(「ハイ」のつもり)」という返事だけである。そんな返事を、家にいる頃家族にしたことはない。ホームに来て、毎日のように介護士に「先生、これから◯◯しますよ?いいですか?いいならハイってお返事して下さい」と言われて、言うようになったのだ。
全身の機能が低下してきている中での「アイ!」は、中身のない自動的な反応にも見える。しかも介護士や私の呼びかけには時々応えるのに、母の呼びかけには何故か一切反応しない。
「しょっちゅう来て話しかけてるのに、お父さん何にも言ってくれない。私のこと嫌いになったのかしら。こんなところに入れやがってって怒ってるのかしら」と母は嘆いた。
介護士の人は、「おうちでも威張ってらした方ほど、そういう態度になりがちなんです。本当は奥様に傍にいてほしいのに、いざ来られると素直になれなくて、無視したりしちゃうんですよ」と言った。「そういう気質は、どんなにボケても最後まで残るんです」。
厄介なものですね、「偉い男」ってのは。
余談。
先日、母から電話があった。
「今日、お父さん、やっと口開いたの。「お父さん」で反応しないから、昔あなたが小さい頃に呼んでた「パパ」でやってみた。パパ、ママよ〜、ママ来たわよ〜、パパ〜って大声で。そしたらいつもの「アイ!」じゃなくて、小さい細い声で「ハイ」って言ったの。そんで自分で無理矢理目を開けようとしてね、片目しか開かなかったけど。私よママよわかる?って言ったらまた小さい声で「わかる」って言った。嬉しかったわ、奇跡が起きたって思ってねえ」
会話はそれきりで終わりだったようだが、母は有頂天だった。私は「良かったねぇ」を繰り返した。
鼻持ちならない先生気質に凝り固まったまま柔軟性を失い、ひび割れてバラバラになった父の心。最期の時が近くなってやっと、その一部に一瞬暖かい血が通ったように思えた。
●追記1
スターが多くついていたブックマークコメントの質問に答えたいと思います。
id:tail_y これ、自分もボケてもレクリエーションをやらされるのはなんか嫌だし、単純に施設の方の準備がこういう男性に向けて作られていなくて、そういうところに入れられちゃった結果悪化していくっていう可能性は無いの? 2013/11/23
http://b.hatena.ne.jp/tail_y/20131123#bookmark-170467338
そういう可能性もあると思います。しかし自宅介護は無理、介護施設は手が足りないという状況では、なかなか良い解決策がないようです。
レクリエーションは、手遊び、リズム体操、図画工作、書道、輪になってする簡単なゲーム、パズル、クイズ、輪投げや玉転がし、カラオケ(あるいは合唱)、囲碁・将棋・カルタ*2など。まるで幼稚園のお遊びだと感じる方も、中にはいるかもしれません。
また利用者への言葉遣いは、「おじいちゃん」「おばあちゃん」という呼びかけや赤ちゃん言葉はNGとなっています。ただ耳の遠い老人が多いので、大きな声でわかりやすくゆっくりという喋り方になり、それが子どもに言っているようだと傍から見えることはあります。
レクリエーションは全員で行うものが多いですが、合わない人も当然います。合わないのでやりたがらない人に無理に薦めることはありません(強制されると思っている人がいるようですが、それはないです。女性でも参加しようとしない人はいます)。他には、ボランティアが来て、演奏やダンスやマジックショーなどを楽しむことも時々ありますし、遠足などの行事もあるようです。
レクリエーションは基本的に、施設利用者の健康(運動不足解消やボケの進行防止)と娯楽のために行われますが、介護スタッフの人数がどこでもぎりぎりなため、個々の利用者に応じたきめ細かい対応はなかなか難しいのではないかと思われます。私の見て来たのは中クラスの介護施設なので、富裕層向けのところだと違うのかもしれませんが。
また、父もそうでしたが、男性は特に「こんなところに入れられてしまった」「他の老人と一緒にされたくない」という思いの強い人が多く、積極的に環境に溶け込もうという意思が女性より薄弱に見受けられます。介護士に横柄な態度を取ったりするのも、どちらかというと男性が多いようです(これからは違ってくるかもしれませんが)。
もちろん例外もあります。私の見てきた中では、まだ頭も比較的しっかりしており普通に歩ける男性が一人いらしたのですが、その方は食事の配膳をいつも手伝っていました。その施設では、配膳はその方の役割ということになっていて、それなりに仕事意識を持ってなされていたようです。「これも運動不足解消とボケ防止になると思ってね」と仰っていました。そういう男性もいます。
全体的に女性も男性も、ゆっくり話を聞いてくれる人を求めているように思います。一旦話しだすと、それはそれはよくお話になる人が結構います。自分の半生について、時々質問もされつつ興味をもって肯定的な態度で聞いてもらうというのは、孤独な老人にとって精神的に非常に良い効果があるのではないかと、実習で感じました。
しかしそうしたことも、介護スタッフが少ない現場ではなかなか難しいことだと思います。
‥‥というか。
デイサービスに通える間はまだいいでしょうが、全面的に介護が必要になって施設入居となった時、多くの人が目も耳も衰え頭の回転も集中力も鈍り、それまで楽しめていた趣味がやれなくなったり興味を持てなくなっている、もっとずっと単純なことしかできなくなっている可能性がある(好むと好まざるとに関わらず)ことを、あまり想像しない人もいるんだなと、ブコメを眺めて思いました。
●追記2
「先生」と呼ばれる女性は?ジェンダーというより職業の問題では?というブコメも散見されるので、書いておきます。
「先生がまだ偉かった時代」を生きてきた介護世代の元・先生(社長さんなども含む)の女性は、女性の社会進出が進んでいない中で物凄く頑張ってこられた人が多いので、プライドも男性と同じかそれ以上に高く、従って認知症が急速に進み「厄介」なことになる確率が、(例えば専業主婦だった女性より)高いかもしれないと思います。
また私事ですが、義母の友人たちの中で一番初めにボケ始めたのが、長年教師を勤めてきた方でした。仕事に非常に熱意と使命感をもって取り組んできた人(私の父もそうでしたが)ほど、燃え尽き症候群の後にそうなっていく傾向があるのではないかと思います。
ただ現・介護世代は、社長さんも先生も男性の割合が圧倒的に多いので、「偉い女」が厄介なことになる事例よりも「偉い男」が厄介になる事例が目につきやすいということです。
冒頭の介護士の話にも、「社長さんや先生の女性には一人もそういう人がいない」ということは含意されていません。何百人もの利用者を見て来た中で、強い傾向の話として言えることを仰っていると思います。
それと、社長さんは別として、学校の先生で管理職に上がって行くのはやはり圧倒的に男性なので、「先生」という「偉い女」も、職場では下の立場となります。昔だと、「男の先生」とは違ったものが「女の先生」に求められたこともあったでしょう。
また教職と家庭の両立に苦労してきた女性も多いでしょうから、その点も、その世代に多い仕事一本やりの男性とはメンタル面が異なってくると思います。
総合して考えると、少なくとも現在の介護世代においては、単純に元・先生の男性と元・先生の女性を比較した場合、男性の方により認知症が出やすいジェンダー的な条件はあるのではないでしょうか。
先生(特に初等教育)に女性が多くなった今、その方達が介護施設を利用するようになる頃は、また違う傾向が見えてくるのかもしれません。とても興味があります。ただその頃は既に私もボケている可能性大ですが‥‥。
●関連記事
父が施設に慣れるまで
言葉の抜け殻と紙の帽子