隣のジェントルマンと日本的ヒューマニズム

今期最後の講義が終わり、京都駅から上りの新幹線に乗った。窓際のA席に座る。
B席は空席でC席に、大きなガタイをダークスーツに包み、ヘッドフォンをしたスキンヘッドの白人男性がいた。なんとなくスパイ映画に出てくる敵役の警護担当みたいな外見(想像力が貧困)。
コートを脱いで膝にかけ、缶ビールを開ける。仕事を終えて、車窓の夕陽を眺めながら飲むビールは格別。隣でプシュッと音がしたのにチラと目をやると、男性も缶ビール。そちらも本日のミッション終了ですか。


京都から名古屋までは缶ビール一本+αの距離。車内アナウンスに前テーブルをしまい、座ったままコートを羽織り体を捻って片腕を通したら、もう片方のコートの肩山が背中のほうにストンと落ちた。とたんにそれはまたスッと上がって、私の肩に戻った。ものすごく自然に。すぐ後ろにレストランのボーイかクローク係でもいたかのように。
振り向いて隣の男性に礼を言う。薄い微笑みが返ってくる。私が狭い座席でモゾモゾとコートを着ているのを見ていたのだろう。ジェントルマンな人だね。でも欧米では当たり前のことか?


これが日本人の男性だったら、やや驚いたかもしれない。もちろん、日本人の男性はジェントルマンではないということを言いたいのではない。
まず日本にはそういう文化がない。良いとか悪いとかは関係なく。欧米のレディーファーストは騎士道の名残りであり、女性差別(女性は保護の対象)的な思考の反映でもある、という見方もある。
そして日本人の男性は一般にシャイだ。困っている人がいれば助けても、こんな瑣末なことで女性に親切にして「ええカッコしい」に思われるんじゃないかとか、考えてしまう人はいそう。
いやそれよりも、下手に女性の衣服に手をかけて、親切を感謝されるより不審に思われたり、「何するんですか!」とキレられたり、痴漢扱いされたりしたら大変‥‥。そういう心配をしてしまう人が、一番多いような気がする。



と書いていて、日本人の男性が車中で女性に親切をする物語を、一つ思い出した。『電車男』ではないよ。志賀直哉の『網走まで』。
中一の時、夏休みの読書感想文の本として、父に薦められて読んだ。父は白樺派的な人道主義を愛する、戦前生まれの高校教師。


この小説を味わうのに、中一はやや早かったように思う。だが、二人の子どもを連れたワケありそうな女の人の襟元のよれたハンカチを、主人公が直してあげる最後の方のシーンは、なんかちょびっとエロいなと感じたのを覚えている。
初対面の二人はそれまでにある程度コミュニケーションを取っていて、いくらかの親密さが生じているので、主人公の振る舞いはシャイな日本人男性と言えども別に不自然ではない。
それでもやはり、相手の身につけているものに触れるのは相手の身体との距離を縮めることだから、他人同士ではレアケースだ。その女の人は礼を言いつつ、顔を赤らめたりしているのだ。


『網走まで』では、恵まれた立場にいる当時の男性としての主人公(作者)と、そうではない女性という非対称があった上で、「ヒューマニズム」は発生していた。
だから思春期に入ってからの私は、作家は意識していないだろう無邪気な男の上から目線を勝手に読み取り、同時に父の中に同じものを感じ取り、微かな反発を覚えた。
だが翻って、他人の男性に対して私が同じような親切をするかと言えば、まずしない。手袋か何かを床に落としたら拾うかもしれないが、コートを着るのを手伝ったりはしない。だからこの非対称はやはりジェンダーと言うしかないのだろう。


白人男性の振る舞いが自然だったのは、それが彼の文化圏では儀礼だったからに過ぎない。儀礼としての行動、儀礼としての微笑。
だが儀礼として根付いていないところでは、それは時々降って湧いた「ヒューマニズム」になる。ただしエロと隣り合わせの。
エロと親切は行為者の意識としてもイメージとしても隔たっているが、人間っぽさという点においては地続きだ。それで親切を装ったセクハラも起こったりするので、面倒臭い。


父はいわゆる「フェミニスト*1だった。女の人に対し進んで親切にするのを、男子の誇りと思っているようなところがあった。
家の近くの高校に赴任し車で通勤し始めた頃、一人で登校中の遅刻しそうな女子を見つけ、車の窓から「学校まで乗っていきなさい」と声をかけて、父の顔を知らなかったらしいその生徒に大いに警戒されたという。同じ高校の教員だと言ったら信用してくれた。70年代の話。
当時はどうだったかわからないが今なら、同じ学校の教員でも生徒に声をかけて車に乗せるのは、緊急時を除いてアウトになるだろう。生徒のほうも(特に女子は)問答無用で逃げるだろう。そういう時代をほとんど知らずに済んだことは、父にとっては幸せだったのかもしれない。


清兵衛と瓢箪・網走まで (新潮文庫)

清兵衛と瓢箪・網走まで (新潮文庫)

*1:昔使われた俗語。女性に優しい男性を指す。通常使う意味とはずれている。