ジェンダー平等社会のエロの位相、あるいは欲望と配慮の関係

男性向けポルノや少年誌のエロ表現関連の話題について、twitterでずっと呟いていましたが、今の時点での自分の考察(仮説)をざっとまとめました。昨日、連ツイしたものに大幅加筆しています。



女性への暴力的な性行為が快楽的に描かれるヘテロ男性向けポルノは、現代のポルノの中でも古典的にしてポピュラーなジャンルだと思われるが、そこにある性的支配のイメージは男女差別構造*1の反映、または還元だという言い方は、半分正しくて半分間違いだ。反映論だと現実に起こっている性意識の変化や流動性を無視することになり、還元論でも男女関係の一義的固定から先に進まない。
更に、エロマンガの昨今の潮流は、「女がすでにエロく、積極的に求められる」のを通り越し「女からの再三の催促に困った顔して渋々応じる」になっているという。*2  陵辱ものや強姦ものがある一方で、「男キャラの受け身化」がかなり前から進行し、最近はそれに拍車がかかっているらしい(BLの影響もあるのかもしれない)。
男性向けポルノにおける、暴力的男性キャラと受け身的男性キャラ。エロメディア批評ではとっくに論じられていることかもしれないが、この二極を前提として仮説的に考えてみた。


現在、女性の権利獲得や男女平等意識の浸透に伴って、セクハラをはじめとした性暴力(かつては暴力とされていなかったものもそこに含まれるようになった)への視線は厳しくなり、男性の従来的な位相は揺さぶられ続けている。男性にとっては、この事態にスムーズに対応し常に言動を自己検閲せねばならない抑圧感に加え、公私共に未だに能動性や積極性を期待され要求される場面が多いという矛盾感がある。
つまり、これまで様々な形で存在した性的支配が社会的に否定され排除されてきたからこそ、抑圧されたそれが、男性向けポルノの中でより過激かつファンタジックに再演されているのではないか。男性向けポルノにおけるある種の過剰さや多様さは、主にこの数十年の間に徐々に社会的な男女差別構造が崩れてきたことへの、防衛的な反応ではないか(ここで言う反応は直接的なものというより、さまざまな回路を経た影響として見出されるもの)。


それを受け手のレベルで見ると、まず現実では女性への配慮に心を砕き、強姦や陵辱もの(暴力的男性キャラ)で "現実では禁じられたこと" を楽しむというかたちになる。そこにあるのは端的に言えば去勢不安だ。この際、男性視聴者が犯される女性に感情移入することも普通にあるようだが、能動性を期待される男ジェンダーの軛から逃れたいという心理が影響しているのではないかと思う。*3
そしてもう一方の極では、現実ではやはり配慮しつつ、「女からの再三の催促に困った顔して渋々応じる」作品(受け身男性キャラ)で "現実ではありえないこと" を楽しむ。ここには現実世界の女性との関係構築の悩み、「女が何を欲しているのかよくわからない」「女への配慮的アプローチが難し過ぎる」という、男性視聴者の困惑が反映されているように思う。
今は後者の方が視聴者のリアルに訴えかけ、流行しているということは、これが、ジェンダー平等の進む社会で平等意識を内面化しつつも去勢の不安を抱える男性が描き得る最大のファンタジーだからではないか。


少年マンガ誌で描かれるラッキースケベも、「男キャラの受け身化」だと言える。
例えば下の記事は、この間twitterを中心に、口絵についての批判が出た週刊少年ジャンプに掲載の『ゆらぎ荘の幽奈さん』のストーリーが、かなりジェンダーに配慮したものであることを丁寧に解説している。ラッキースケベはその言葉に反して、主人公にとってラッキーな事態ではない。非合意なボディタッチをする悪役男子キャラは他にいると。
『ゆらぎ荘の幽奈さん』に見られるジェンダー的配慮 - 辰巳JUNKエリア ニワカを極めるブログ


内容をよく知る者には、問題となった口絵も物語の一コマ、せいぜいアクセントに過ぎないのかもしれない。しかしあのビジュアルには、配慮されたストーリーを逸脱するかようなエロ・インパクトがあったのも確かだ。
つまり、ストーリーと単体ビジュアルは乖離している(少なくともしっくり噛み合っていない)のではないかということだ。これは批判ではない。
PCに配慮したリベラルな「ゆらぎ荘〜」のストーリーは今、主に男性に求められている行動規範と重なるという意味で非常に「教育的」だ。一方、口絵は「教育的でない」という観点から、そこに置かれていることを批判された。
このマンガの二重性は、ジェンダー平等を進める社会と男性向けポルノの関係をそっくり反復しているように見える。


つまり少年向けマンガのストーリーがリベラルであればあるほど、そこから排除された(非リベラルと見なされがちな)エロはビジュアルに宿るということになる。
これはマンガ表現において昔からあるPC配慮とマーケティングの兼ね合いであるという、実際面からの指摘*4は確かに説得的で頷けるものがあるが、ここでは欲望から読み解きたいと思う。
ストーリーを意識、ビジュアルを無意識に喩えてみよう。意識から抑圧、排除されたものは無意識に留まり、変形したかたちで現れる。ラッキースケベのシーンはその変形そのものだ。
更に言えば、少年誌においてエロという抑圧されがちなものをビジュアル化したい欲望が最初にあり、ジェンダー配慮的なストーリーはその欲望を隠蔽し、エロを無害化するための方便(だから教育的なものになる)として組み立てられているという見方もできる。これは芸術作品ではよくあることなので、マンガでもないとは言えない。
そもそも、ジェンダー平等を進める社会と男性向けポルノを含めたエロ表現の歴史的位置関係は、後者が先、前者が後だ。それを「ゆらぎ荘〜」(ポルノではないが)に重ねれば、エロを描きたいという欲望が先にあり、ストーリーにおけるジェンダー配慮は後付けということにならないか。「宮崎駿の動機・欲望はメカと美少女」のように。


そのことを、読者はやはり無意識でキャッチするだろう。
主人公は女性蔑視的視点は持たず、他者を気遣いサポートできる優しい男子として描かれているようだが、彼を見舞うラッキースケベは、主人公に自己を仮託する少年読者の中では「困った状況だけどやっぱりラッキーだよね」というふうに感受されているのではないか。あのビジュアルは、多くの少年のあまり他人には言いたくないスケベ心を満足させるサービスの役目を果たしているはずだ。
では、もしPCに配慮されたストーリーとエロいビジュアルの乖離(に見えるもの)があえて作られているとして、それは大人から子どもに押し付けられる二重規範として批判されるべきだろうか? それとも、異性への配慮的対応とスケベ心の乖離に悩み始めた少年たちへのエールや心配りと捉えるべきだろうか?


私も問題の口絵だけ見た時、「少年誌でこれはちょっと‥‥」と感じた。その感覚は実はまだ消えていない。ただ、先に述べたジェンダー平等を進める社会と男性向けポルノの捻れた関係が実際にあると仮定すると、「ゆらぎ荘〜」はその関係性をそのままきれいに反映するマンガということになるだろう。
少なくとも、エロ要素を作品に取り込む創作者なら、ストーリー=リベラル/ラッキースケベシーン=非リベラル(に見える可能性)の二重構造は、充分に自覚されているはずである。


そして一方で、その表現が自覚的であろうとなかろうと、(エロ自体の否定ではなく)「教育的配慮」という観点から「影響」を懸念する声はなくならないだろう。そこでは、急速に抑圧された男性上位の性的支配の無意識的発露としての男性向けポルノの存在が、反映論や還元論によって捉えられているように見える。
それは先に「半分正しい」と書いた。女性への性暴力がなくならない以上、反映論や還元論はいつまでも批判や糾弾として出てくるだろう。
人権思想の一つである男女平等思想を更に浸透させないで、どうやって性暴力被害を減らしていくのか?という問いは正当である。性暴力が快楽的に見えるようなビジュアルを、男女平等思想を学ぶ途中の子どもに娯楽として享受させるのは果たして良いことなのか?という問いも真っ当である。
しかし娯楽の中にどこまで教育的配慮を求めるべきか、その線引きは難しい議論になると思われる。


社会的規範とそこで抑圧されるものの関係を、意識と無意識になぞらえることが許されるなら、ポルノはアートと同様、無意識が変形した「夢」だ。バランスが難しいところだが、抑圧は強過ぎても弱過ぎてもまずいのではないだろうか。
人権を尊びPCに配慮し男女平等を押し進める、というリベラルな動勢を止めることはできない。それが近代を徹底するということなのだから。
一方で、抑圧によって生まれる去勢不安の中、欲望は迷走し、配慮と期待に引き裂かれる現実の異性愛関係には困惑と疲労が蓄積する。これも避けられない。
ただこうしたことが逆説的に、ポルノだけでなくさまざまな物語やビジュアル領域に、多様で特異な表現をもたらすかもしれない。そこに顕現してくるだろう既存の性愛を超えた何かを見たいという気持ちが私にはある。



●付記
女性向けポルノを主に論じたものとしては、『欲望のコード - マンガに見るセクシュアリティの男女差』(堀あきこ、臨川書店、2009)や『女はポルノを読む - 女性の性欲とフェミニズム』(守如子、青弓社、2010)など、BL分析では『ボーイズ進化論 - ボーイズラブが社会を動かす』(溝口彰子、太田出版、2015)という良書があるけど、男性向けポルノの批評ではどんなものを読めばいいんだろう。
エロの敵 - 今、アダルトメディアに起こりつつあること』(安田理央雨宮まみ翔泳社、2006)は読んだが11年も前のものだ。AV批評はいくつかあるようだが、エロマンガの最近の動向も押さえたものが読んでみたい。


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*1:これを前「家父長制」という言葉に代表させて議論の混乱を招いたので、今後は避けるようにしたい。

*2:https://twitter.com/m_pokesawa/status/887327360374132736

*3:もっとも、さまざまな性暴力被害に遭っている多くの女性からは、「フィクションにせよ被害者側に立って興奮するなんていい気なものだ。現実を知ってもそんな快楽を貪れるのか」と思われても仕方ないかもしれない。

*4:https://twitter.com/ppponsu/status/887281285797892099