最近、Twitterで千野帽子さんとやりとりさせて頂いた。質問と回答が若干前後しているがそのまま掲載。
では人はいつ差別者となるのでしょうか? それは他人の属性に否定的な意味づけをするときです。つまり、差別者になるかならないかは、自分の選択なのです。
— 千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』 (@chinoboshka) 2017年8月19日
人が被差別者となるのは属性によってであり、差別者となるのは行為によってです。
多くのばあい属性は選択不可能、行為は選択可能です。
RT 差別行為が「選択可能」とは思わない。それは気付かぬうちにしてしまっているものだと思う。赤ちゃんは誰も差別しないが差別のある社会の中でそれを覚えていく。言葉を覚えるように。そのずっと後で初めて己が差別者であることを知り「差別しない」という行為が「選択可能」になると考える。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2017年8月19日
「他人の属性に否定的な意味づけ」をした時、既に差別者に一歩踏み出している。でも自分は東大卒が嫌いだからと言ってそれが差別になるだろうか。その「属性」は多くの場合マイノリティ側、権力的に弱い側のものだ。有色人種、障害者、女、貧困者、太った者、容貌の劣る者、学歴のない者etc
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2017年8月19日
自覚後にはじめて選択可能となるのなら選択可能です。僕はそう言っているのです。https://t.co/wR8M3Z7H8C
— 千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』 (@chinoboshka) 2017年8月19日
なお「赤ちゃんが差別しない」という文化決定論は取りません。差別行為を取る能力がないだけで、差別への傾性はある。差別感情の萌芽はデフォルトで、社会は「差別しないこと」を教えうるのです。脳は空白の石版ではありません。https://t.co/wR8M3Z7H8C
— 千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』 (@chinoboshka) 2017年8月19日
もうひとつうかがいます。大野さんは「選択可能な行為なのに、うっかり間違ったチョイスをしてしまったこと」はないのでしょうか? 僕はしょっちゅうです。「そのときはそうしてしまった」からといって選択不可能だったとは僕は考えません。https://t.co/wR8M3Z7H8C
— 千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』 (@chinoboshka) 2017年8月19日
それはそうですね。「生まれたばかりの赤ちゃん」と書いたほうが良かったかもしれません。そこからやがて赤ちゃんなりの好き嫌いが生まれてくる。それはまだ「差別」とは言えないと思います。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2017年8月19日
だれのものであれ、好き嫌い(仏教で言う「分別」)は差別の萌芽です。人間であることと差別感情を持つことはセットです。僕は人間から差別感情を切り離す立場にはありません。社会から反差別を学ばなければ、人間は当たり前のように差別しますよ。https://t.co/4wON6YEZx3
— 千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』 (@chinoboshka) 2017年8月19日
千野さんは「差別者となるのは行為によって」であり「行為は選択可能」と書かれているので、差別者になる/ならないのは選択可能と仰っていると受け取りました。私は差別者にはなろうとしてなるものではなく気付いた時はなっていると考えます。「選択可能」なのは「差別しない」という行為だけです。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2017年8月19日
もちろんうっかり間違うことは私もしょっちゅうです。ただ差別感情について考えてみると、「これは差別していいかいけないか。いいね」というふうに選択を間違ったのではなく、選択以前に既にしていたという認識をもっているので、それに気付いた時に選択し直すということしかできないと思っています。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2017年8月19日
「好き嫌い」と言うと食べ物や服の好みにまで広がりますし、差別しているのではないが苦手な人というのもいます。なので、それと「差別」とは分けたいと私は思います。人間であれば差別感情を持つということには同意します。そして人は社会から差別も学べば反差別も学ぶものだと思います。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2017年8月19日
たしかにそのときどきで「差別する/しない」と「差別者である/でない」ととは、同一視できない表現ですね。〈「選択可能」なのは「差別しない」という行為だけ〉という大野さんの表現のほうが正確だと僕も思います。ご指摘ありがとうございます。https://t.co/SBU2AWB33I
— 千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』 (@chinoboshka) 2017年8月19日
まったくもってそのとおりです。細やかなご意見助かります。僕の表現は粗い部分がありましたね。https://t.co/g9O9UiT1gC
— 千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』 (@chinoboshka) 2017年8月19日
こちらこそ、おつきあい下さりありがとうございました。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2017年8月19日
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差別とは民族や性、社会的位相における「マイノリティ差別」のことだった。マジョリティ/マイノリティが明確な社会ではそれがわかりやすい。しかし今はそれらの位相が複雑に入り組んできて、誰もが差別者であり誰もが被差別者になりうるという状況。だから個別の案件で丁寧に見ていかないといけない。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2017年8月19日
差別という概念が生まれる前から差別感情や行為はあったはずだから、すべての差別はもともと無意識のうっかり差別だ。共同体が国家へと発展していく中でそれは社会の仕組みから個人の内面にまで組み込まれた。今すべての差別に反対するとは、起源が曖昧なものに対して、責を負う立場に立つということ。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2017年8月19日
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