荒川美由喜の作品

久しぶりにアートを見る

ガレリア・フィナルテというギャラリーに、荒川美由喜さんという若い作家の個展を見にいった。
荒川さんは一昨年度、名古屋芸大のデザイン学部(メタルコース)を卒業した人。


メタルコースというと、だいたい鋳金で作ったアクセサリーとかテーブルウエアとかオブジェとか、いわゆるデザイン・工芸っぽい作品が多いのだが、卒業制作展の時の彼女の作品は、淡い色に染めたスリップを天井から何枚も並べて吊るし、豆電球で照らしたインスタレーションだった。
「ふ〜ん、金属使ってなくても作品の中身で卒制として認定されたのね」と思っていたら、そのスリップを吊るしてあるヒモ状のものが、極細の針金を編んだもの。芸が細かい。


ともかく、なんかヒリヒリする感じの若い女性独特のヴァルネラビリティがそこはかとなく漂ってて、メタルコースの展示室の中でも異彩を放っていた。
毒にも薬にもならない感じの絵の並ぶ部屋を足早に通り過ぎてきて、こんなところで(なんて書くとデザインの人に失礼ですが)思わぬめっけものが‥‥という感じであった。


さて、フィナルテの荒川作品である。
美術作品って、だいたい一目見ていいか悪いかわかるから、話が早い。
いやそんなことはない、じっくり見ないとわからないという人もいようが、私の経験では第一印象でほぼ決まるように思う。これは美術の知識があるとか目利きだとかいうこととは、基本的に関係ない。


そして荒川さんの今回の作品は、「いい」(あくまで美術作品としての質が)と即断できるものだった。
こういうことはマメにギャラリー回っていても(私は回っていないが)、あまりあることではないのでやや得した気分になる。
私がまだアーティストをやっていたら「いい」と思う一方で、「クソ、小娘にやられた」と心中穏やかならぬものがあるかもしれないが。

スリップの山

前置きが長くなったが、作品の形状は以下のようなものである。


ギャラリースペースの床に、白いスリップが何百枚も整然と並べられ、手前中央に向って徐々に積み重なって、こんもりと山のように小高くなっている。
そのスリップの「山」は床から6、70センチくらいの高さにきたところで、真上からすっぱり断ち切ったようなかたちになっており、スリップの裾の何重にも重なった「断面」が、手前に見えるようにインスタレーションされている。
面の輪郭は完全に左右対称の裾広がりの形。
作品の向こう側に回り込むと、たくさんのスリップがさざ波みたいに重なって、床から「山」の頂きに向って緩やかにカーブを描いている。
スリップは全部、胸元と裾にレースをあしらったごく普通の(というかやや懐かしい)デザインだが、微妙に白さの異なるものも何枚か混じっている。


丸みのある外郭の優雅でシンプルなかたちと、裾のレースが何十枚もきちんと積み重なって層をなしている「断面」が明快な対比をなしていて、単純に気持ちいい。全体のたたずまいはエレガントだがきっぱりしている。
現代美術で特に珍しいモチーフではないだろうけど、大量のスリップを使ったらこれ以外の見せ方はありえないと思わせてしまう。卒展の若干湿り気のある作品より、明らかにスコーンと抜けた感があった。


さて、スリップは特別機能的というわけではない、するするへなへなした「雰囲気もの」の下着だ。スリップなんてほとんど着ない女は多いと思うが、スカート姿の下はスリップという「お約束」イメージは、今だにあるように思う。
化粧して顔に一枚ベールを掛けるのと同じく、スリップはブラとパンツだけの露骨な身体にベールを掛けて曖昧化するものだ。
別になくてもいいにも関わらず、女の皮膚に当たり前のように貼りついてくるものとして、化粧とスリップは似ている。


女性性がはっきりしていても、ショーツやブラジャーではダメなのだ。
だいたい寄せて上げるブラとかヒップアップに工夫の凝らされたショーツといったものには、女性のボディへの欲望が込められ過ぎていて、それだけでもう鬱陶しい。そんなものがぎっしり並んでいると、たぶん「お笑い」になってしまう。
だから女性でプライベートで身体に近い記号でイメージ先行で‥‥と考えていった場合、スリップになったのは妥当な判断だと思う。

暴力性とフラジャイル

レースというのはそれ自体で綺麗なものだが、 スリップのレースは何のためにあるのか。
下着の繊細なレース使いには、「私は繊細な存在だから丁寧に扱ってほしい」という男へのメッセージが込められている。しかし普通の女が毎日着る下着は表に出ている化粧と違い、毎日他人にメッセージを届けているわけではないから、それは結局誰にも届かない独り言の呟きのようなものだ。
つまりスリップのレースは、女性の孤独なナルシシズムを支える「滑稽なもの」なのだ。


そうした裾のレースの端が層をなすまるでミルフィーユのような「断面」は、軽い残酷さと自嘲を感じさせる。デリケートでラブリーな表情の下に、うっすらと暴力的なものと、フラジャイルなものが同居している。
ここにあるのは外に向う暴力ではなく、内に向う密やかな暴力だろう。
澄ました顔をしているがレースの間にいろいろ隠しているな、こいつはという複雑なニュアンスが出ている。


化粧もスリップも引き剥がしたいけど、もう自分と一体化しているからちょっと無理。で、そういうのに喜んで依存してる私って何。ああウザ‥‥。ウザいの積み上げたらこんなになってしまった。ははは。何か笑える。てか、バカみたい。
という自分を突き放した視線があるから、プライベートなモチーフでも閉じた感じはしない。 下着なんてものを扱う人は慎重かつクールであることを要求されるはずなので、そこをクリアしているところで美術作品として成功している。

‥‥のようなもの

「私はかわいくて傷つきやすくてコワイでーす」と露骨に言っているような女の子の作品が一時期目について辟易していたが、荒川さんはたぶん「恥」というものをよく知っているので、そういうことはやらないのだろう。
フラジャイルといっても、いわゆるガーリー系の作品とも違うし、奈良的あるいは村上的あるいは草間的カワイイグロイの感じともまったく違う。強いて言うと笠原恵美子に近いかもしれない。


ミニマルな反復の形式は、クールさや緻密さを印象づけるものだ。その形式性によって、そこから漏れ出てくるニュアンスを感じさせるのも、まあミニマルアートの常套手段ではある。女性性をめぐるモチーフもテーマもわかりやすい。
そういう意味では決定的に新しい作品ではなくて、むしろ手堅い。


でもそもそも今の現代美術に、「決定的に新しい作品」なんてのを期待する方が間違っていたかもしれない。
若い作家は、そういういかにも現代美術な野心はもうあまり持っていないのではと思う。それより、自分の内面を深く掘り下げていく方に関心があって、それがたまたま美術のようなものになっているという感じなのでは。あくまで個人的なレベルでだけど。


たまたま美術のようなもの。
たまたまパフォーマンスのようなもの。
たまたま演劇のようなもの。
「たまたま‥‥のようなもの」という共通分母がもしあるとして、そういう気分が代理表象しているものが何なのか、気になる。