マシュー・ボーンのバレエ

くるみ割り人形

男性のバレエダンサーによる『白鳥の湖』の演出監督で有名な、マシュー・ボーン率いるダンス・カンパニー「アドヴェンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズ」(AMP)のバレエ『くるみ割り人形』を芸文センターに見に行った。
出かける前、予習のため古典版の『くるみ割り人形』を清田さんに借りてDVDで。このコテコテのオーソドックスなバレエをどんなふうに変えてしまうのか。


バレエのナマの舞台は初めてで、しかも最前列だった。
バレエと言えば、優雅、優美というイメージが先行するが、終始一貫してパワフルでエキサイティングなバレエというのも初めてである。
ここまで音楽と人のカラダとビジュアル総動員されて、圧倒的なテンションと完成度で見せられると文句つけにくいなあというのが、見終わった直後の正直な感想。


もともと『くるみ割り人形』の原作は、子ども向けの荒唐無稽なファンタジーだが、それを書き換え感情移入させて引っ張れるのは、やはり物語+音楽+ダンスというバレエの形式のお陰だろう。
物語(内容)表現のために、ありとあらゆる「言葉以外の表現」が、最大限に活用されている。それがAMPの場合、ほとんどバレエの枠組み(というのがどういうものかはっきりは知らないけど)を破壊しかねない勢いである。


でも破壊されないのは、書き換えられた物語とクラシックバレエの型を逸脱したダンスを、チャイコフスキーの音楽が支えきっているからだ。チャイコフスキーの『くるみ割り人形』が耐えられるいっぱいいっぱいのことをやっている、ってふうにも言えるかもしれない。
つまり意匠は新しいが、とりあえずは極めて古典的な表現の枠内にこの舞台はあるということだろう。

踊る男

私の貧しい知識を動員すれば、古典バレエの場合、群舞に囲まれた男女のデュエットがハイライトのようになっていると思う。その中でもプリマが舞台の主役で、それに比べたら男だけの群舞は添え物である。男は事実上引き立て役の古典バレエの世界は、見かけ上の「女尊男卑」だ。


しかしAMPの舞台では、男だけのダンスシーンがひときわ冴えていた。女が混じってない方が精彩があるくらいだった。
別に私が男のダンサーのきれいな体に見とれていたということではなくて(それもあるが)、『白鳥の湖』の時と違い男がそのまま男を演じていながらも、「ヒロインとタメ張ってます」という完全な対等意識が男性ダンサーから(というか彼らの扱いから)強力に伝わってきた。
そしてきっちり踊っているにも関わらず、男が男を演じることの可笑しさ、微妙なずれの自覚が垣間見えるのが、面白かった。例えば熊川哲也なんて人の、正統派のバレエダンサーのナルシシズムを相対化しちゃうようなユーモアをそこに感じる。

ファンタジーの暴走

個人的にはまず設定が、原作のようなお金持ちの家ではなく、孤児院というところでもってかれた。
孤児のクララの描いたひたすらドリーミーな世界。ヒロインが孤児という設定は、夢の世界とのギャップを描く上では定石だろうがはまっている。
幻想の場面全体が、クララの性的な妄想をビジュアライズしてるようだった。ファンタジックでラブリーなんだけど、一皮剥くと少女の性夢。もし完全に大人向けの「くるみ割り人形」だったら、もっとエロ満載だったと思う。まあお子様も見に来ているし、これがぎりぎりのラインだったのかもしれない。


「孤児院」ときたら「脱走」である。
めくるめくような夢から醒めて、そのまんまの勢いで憧れの男の子と孤児院の窓から逃げてくところで幕。
真冬の夜中に寝巻きのままで外に出たらたぶん凍死するだろう。と考えるとこれは実は、悲惨な境遇の少女がいろんな幻想を見て幸せな気分になって昇天する『マッチ売りの少女』と同形の「悲劇」? 有頂天になった女の子の暴走が、死ぬところまでは描かれてないだけで?
なんだか付け足しみたいだったそそくさとした、一見ハッピーエンドじみたエンディング。その後のことなど知ったことかという無責任な態度こそ、物語そのものの特質かもしれない。


なんて思いながら、暴走したまま最期に突き進んだ愚かな女の子が一晩に描いた妄想を、ひたすら楽しく美しくせつなく盛り上げるチャイコフスキーの『くるみ割り人形』を、家に帰って改めてCDで聴いていたら心底悲しくなってきた。