「アート・カフェ」とかいうもの

「おもてなし」の極意

某若手アーティストが教えてくれたところによると、最近の現代アートの裾野の方では、「おもてなし」が流行っているという。
現代アートの「おもてなし」とは、展覧会場に行くとでっかい皮張りソファがあり、そこに座るとドンペリとフルーツが出て来て美女または美男がぴたっと両サイドに付く、というような緊張を要するものではない。
敷物が敷いてあって靴を脱いで上がらせ、アーティストがお茶などを出してお話をする、というような地味なことらしい。


そういう「作家とお茶飲んでお話」みたいな空間を「カフェ」と称し、「アート・カフェ」みたいな感じを演出するのが、若い作家の間で流行っているとか。演出ばかりでなく、それをアート行為としてやっている傾向があるとか。
言われてみると、それっぽい匂いはかなり前からしていた。私はその手の匂いに敏感なので、そういうことが行われそうなとこには近付かないが、やるに事欠いて若いもんが客と茶飲み話だけとは。老人のようである。


「おもてなし」を最初にアートとしてやり始めたのは、タイのアーティスト、トムヤムクン(もちろんこんな名前ではないが、失念してしまった)だと思う。ギャラリーで客に作家自ら本格タイ料理を振る舞うというので、一躍有名になった。
ギャラリーでやるからアートと言われるのであって、自分ちでやってたらそうではない。デュシャンの『泉』とおんなじ発想である。しかし誰も「これってデュシャンの『泉』じゃん」とはツッコミ入れないらしい。たぶんタダで本格タイ料理が食べられるからだろう。
そこへもってくると、「アート・カフェ」はビンボ臭いしインパクトに欠け過ぎる。しかも、お茶を出す代りに客に何か一つ面白い話をしてもらう、なんて「プロジェクト」をやってる人もいると聞いて、呆れる。なんでこちらが作家にサービスせねばならないの。どこが「おもてなし」なの。ナメとんのか客を。


この「カフェ派」の傾向とは、もう茶飲んでダベるしかやることがないのさアートには、という開き直りではなく、「様々な人々との交流を図るアートの一つの方向性」みたいな感じで、その筋の人々は捉えているらしい。
客ナメとんのではなくて、作家の腰が低かったとは二重の驚きである。
しかし普通に考えて、何か打ちのめされるような体験を求めてギャラリーにやってきた人が、さあ靴脱いでくつろげと言われても困る。くつろぎたかったら、家に帰る。

和んでみんなフツウの人

ギャラリー空間をゆるい日常空間にするというのは、会田誠などが「こたつ派」と称してだいぶ前にやっている。しかし最近の「カフェ派」には、自虐の匂いもコンセプチュアルな要素もないようだ。そこにダダイズムにおけるキャバレー・ヴォルテールや、昔のカフェ・ドゥ・マーゴみたいなトンがった熱気を空想するのは、たぶん的はずれ。
要は、 どこでもまったり自分の空間みたいに和みたい、でも多少はオシャレにという、ここんところずっと若いもんを捉えて離さない「和み欲」が、アート方面にもずるずる出てきたということだろう。


大学のアトリエなんかでも、まずはソファやCDデッキや電気コンロやコーヒーメーカーなどを持ち込み、妙に生活空間化して居心地良くしつらえようとする傾向がある。そして他のアトリエにいる友人を招いて、お茶して和む。制作はそれからだ。
もしかして教授の研究室を真似ているのかもしれない。別にアトリエをどう使おうと勝手だが、どんなところも私的空間化したがる傾向は、ごく最近のものだと思う。


折りしも世の中、癒し系のカフェ流行り。コジャレた雑貨屋なんかにも、お茶飲むスペースがあったりする。流行りもんにアーティストは弱い。似たもの同士でつるむ、和む、まったりする、のこのサロン志向は、しばらく続くだろう。


芸術空間は遡れば貴族の文化サロン空間だったわけで、確かにお茶とお喋りはつきものであった。
そこでは客も、ウィットのきいた小咄の一つや二つ披露できないと、村八分にされた。サロンの主の「おもてなし」に相当するものを返せるディレッタントが上客とされ優遇された、そうした排他的特権空間が過去にあったお陰で、現代美術のギャラリーなんかも存続しているのである。
貴族の精神的末裔であるコレクターとか趣味人が、趣味のモノや買い集めた作品を置いて内輪のサロンを作るというのは、まあわかる。関係ない者にはどうでもいいが、同好の士にはさぞ居心地のよい癒し空間であろう。
またギャラリーでは椅子に座れば、お茶出してくれるところは多い。展示作家もやることがないので、来た人とお茶飲んでは喋っている。作品なんか見ないでお茶だけ飲んで、世間話を喋りまくって帰っていく人もいる。そんなことは昔から普通に行われてきたことである。


しかしそこは未だに一般人には、ちょっと敷き居の高い空間だと思われていたりする。作品についてウンチクの一つも垂れ、高尚な芸術談義ができないと居づらい針のムシロのような空間だと思われていたりする(しないか)。
だからそうではなくてフツウなんだということを、作家自ら敷物敷いて、作家自らお茶出してくつろいでもらうことで払拭したいと。
こういう場合判で押したように出て来るのが、「コミュニケーション」「交流」という言葉だ。その筋の人から直接聞いたわけではないが、そうに決まってる。いい加減ボキャブラリーをもう少し増やしてはどうかと思う。


しかしアーティストもお茶くらい出せるフツウの人間なんですよということを、そんなに言いたいのだろうか。
だったらアーティストやめてフツウの人間になるのが一番の早道だが、「カフェ派」はそれはしないのだろうか。