東京雑感

名古屋嬢がいない

たった2日であったが、東京へは久しぶりに行った。渋谷なんて実に10年振りである。
東急Bunkamuraから若者でごったがえす土曜の夜の渋谷駅まで戻ってきて、清田さんと宮田さんと私が異口同音に言ったことは、
名古屋嬢、いないね」。
ここ1年ほど、JJとかCanCamとかのコンサバ女子大生ファッション誌のみならず、女性芸能週刊誌でも話題となり、全国制覇するかの勢いであった天下の名古屋嬢が、渋谷にはいない。もしかしたら東京にはいないかもしれない。名古屋嬢に多大な関心を寄せる我々には、ちょっとした発見である(東京方面からの情報求む)。


改めて説明すると名古屋嬢とは、茶パツの巻き髪にお水系のメークをして目立つブランドバッグを持ちシャツの襟を立てた、名古屋特有の派手で品のないお嬢様ファッションのことである。金がかかっていることをアピールして貧乏な男を遠ざけ、わかりやすいエロさでトロい金持ち男を釣る、そういう一種の短大・女子大系風俗。コギャルのお姉さん版と言ってよい。


それが名古屋に大量発生したのは、この不況下にトヨタという地元産業のお陰で消費に邁進できるという経済的要因に伴い、もともと保守的な風土で、自宅にいてお稽古事とファッションに血道を上げられる女子が多いということであろう。
もちろん名古屋の若い男も概ね保守的であるから、名古屋大学あたりに通う経験値の低い理系のボンボンが、勝ち犬を目指す名古屋嬢に引っ掛かるのである。


話は東京のことであった。


東京に外国有名ブランド店がオープンすれば、男女が長蛇の列をなすということは名古屋にいる我々も知っている。
名古屋嬢」というネーミングは、ブランドに弱い名古屋女に注目させ全国に広めておいて、相対的に自分達のブランド志向を目立たなくするという、東京の姑息な手段であったのか。


週末の渋谷というのは近郊の地方都市から遊びに来ている若者も多いだろうから、純東京ファッションウォッチングには適していなかったかもしれない(渋谷駅前には黄色いTシャツの若者がやたらたむろしていた。新しい渋谷ファッションかと思ったら、喜納昌吉の選挙演説というか選挙ライブの後のようであった。それでお揃いのTシャツ。ファッション以前の問題である)。
しかし東京の一般人の女に、わかりやすいブランド志向の派手なお水系はいないという印象を受けた。
そして若者が多過ぎるせいか、いわゆるおばさんも目立たない。名古屋では街中はどこもほとんど中年専業主婦の姦しい団体に占拠されていると言ってもいいのだが、東京のおばさんはあまり群れてないし、そう派手でもない感じ。

一人でいるプチインテリ男

それよりも印象的だったのは、30代前後の男が東急Bunkamuraみたいなところに一人でいる、という我々には珍しいシーンである。
カフェ・ドゥ・マーゴに行けば、ブックファーストで買った新書を一人で読んでる男がいたり。シアターコクーンに若い男が一人で来ていたり。何かと「一人でいるプチインテリ系の男」が目についた。
こういう文化スポットに連れもなくたった一人でいる男、というのは名古屋ではほとんど見られない。美術館にしろ劇場にしろもちろんカフェにしろ、大抵女と一緒である。女に引っ張られて来ました、みたいな感じが多い。


つまり文化的スポットというのは、名古屋ではデートスポットでしかないのである。
男はみんなトヨタに働かされているので、そもそも文化と接触する機会が極度に低い。そして女はファッションに血道を上げているので、美術館とはデートするところ(男とファッションを見せびらかすところ)だと思っている。 劇場や美術館に一人で来ている女も、東京の方がずっと多い感じがする。
そう言えば、カフェで静かに本(女性セブンではない)を読んでいる若い女なんてのも、ほとんど名古屋では見かけない。大抵二人か三人で、お洋服とメークと芸能人とカレシの話と仕事の愚痴を延々とくっちゃべっている。
それが結婚してそのまま団体行動するオバサンと化すのであることは、言を待たない。特に名古屋郊外の中途半端な田舎街に生息するオバサン達の、喫茶店占拠の実態は目に余るものがある。


また、名古屋の話になってしまった。
「なんでああいう個人で単独行動する妙齢の男が、名古屋にいないのでしょうねえ」と宮田さんと話し合ったが、やはり独身者文化というものが発達していないせいであろう。ファミリー文化とカップル文化が幅をきかせていれば、いくら立派な箱モノがあろうが、様々な文化的催しが名古屋飛ばしをするのも当然である。
それと、名古屋の夜の文化がほとんどクラブと風俗しかないというのも大きい。
クラブは今や子供ばかりだし、風俗は当然オヤジばかりだ。子供でもオヤジでもない男が一人でいて違和感のない場所は、バーか赤提灯くらいしかない。夜通し開いている本屋やレコード店やカフェは、名古屋にできないだろう。

見せたがり文化

しかし東京みたいな現象は、やはり超大都市ならではのことである。男女の負け犬(30代未婚子無し)人口とフリーの職業、及びフリーターが多いということが、これに関係している。
おそらく東京に住む「フリー」の若い男女は、どこにいても「見られている自分」を意識せねばならないのではないか。いや意識しようとしまいと、大勢の他人が行き交う街に出て行くことは、イコール自分を他人の視線に晒すことだ。六本木ヒルズ(行ったことないけど)のトレードマークとなっている村上隆の「目玉」は、単純にこれを現している。


そして、このことに自覚的でない者は、「最先端都市に生きる現代の若者」の資格を失うのだ。他者の視線に耐えられなければ、家に引き込もっているしかない。
都市文化とは「見せたがり文化」である。
そういう文化はもともと、ニューヨークやロンドンやパリの文化である。つまり19世紀末に出現したヨーロッパの都市生活者の文化の延長線上に、渋谷はカフェ・ドゥ・マーゴの読書する男も存在している。


そもそもドゥ・マーゴ本店は、サルトルボーヴォワールが集ったというパリの有名なカフェだ。当時は議論と交流と思索の場所でもあったろうが、今や観光名所になっていて日本人の女が押し掛けるという(実は私も行った)。
だからそのオープンカフェで本など読むのも、もう既に一種のファッションなのだ(実は私もそこで本を読んでしまった)。
とすると、東京のプチインテリ男のプチインテリな行動も、どこかで「見られている自分」を深く内面化しているのではないか。
劇場に一人で来るのはまだしも、アイスカフェオレが700ナンボ(高級ホテルのティールーム並みだ)もする喫茶店になんでわざわざ一人で出かけ、人通りの多い外のテーブルで読書せねばならぬのだ。カッコつけてんじゃないよ、ということである。


やはり東京特有の「見られたい文化」は、名古屋嬢なんかと違って屈折しているのだな。
まあ芸術だのカルチャーだのというのは、屈折とやせ我慢(700ナンボもするアイスカフェオレもあえて飲む)の土壌から生まれるのかもしれない。名古屋はそういうカッコもつけない分だけ、下品だが正直なのかもしれない。
その名古屋文化に馴染めない生っ粋の名古屋人の私は、相当に屈折していてカッコつけてる厭な女ということであろう。