「取扱説明書」を書ける立場/書けない立場

三つのブックマークコメントから。

2007年11月10日 kusamisusa 恋愛,大学 「文系男子取扱説明書」を書いたらキモーイ感じになるであろうわけで、そのへんの非対称性が。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20071109/1194621282

2007年11月13日 rAdio『ちょっと厄介な私の取説』か…羨ましいね、そういうことを堂々と言えてしまうのが。妬ましいね。そして憎い。非モテ男がいくらそれを叫ぼうとも、待っているのは…。
2007年11月13日 TakahashiMasaki 喪男,とりあえず "理系女子も文系女子文化系女子も芸術系女子もギークなお姉さんもその他の女子も、それぞれ女子の生きにくさ、厄介さというのを、どこかで抱えている。それを少しはわかってほしい"なら喪男らも…
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20071112%231194882161


そうですよ、女子だから言えるんです、男子が言ったらキモいです、書くなら「文系男子取扱説明書(笑)」とでもしないとねぇ、でもってすごく腰を低くしてユーモアたっぷり自虐たっぷりに書かないと読めたもんじゃないでしょうね、「非モテ男子取扱説明書(笑)」「喪男取扱説明書(笑)」、読みたがらんでしょうなぁ誰も、「いくらそれを叫ぼうとも、待っているのは」罵倒と嘲笑とヌルい同情くらいのもんでしょう、まあ草さんの自意識過剰っぷりが際立った「文系男子取扱説明書(笑)」はちょっと読んでみたい気もしないでもないけど(もうやめろ)。


んで。
女は自分を含む女子集団の「取扱説明書」を書いてもキモがられないが、男は「キモーイ感じになるであろう」ならば、それは具体的にどゆこと?


思い切って全然違う状況で考えてみよう。例えばこういうシーン(男の人向け)。
まだよくは知らないけど、とても美しく魅力的な女性がいて、今にもハートをもってかれそうだ。その時彼女があなたに(あなただけに)囁いた。
「ね。私の取説、知りたい?」。
うわぁやめてくれ! 俺の心をもて遊ぶなー! ・・・・・・陥落。


そういうふうになりませんか?(ならんって人はいいです)
そんな変なこと言う女はいない、というツッコミはなしの方向でお願いします。シーンとして成り立つかどうかの問題。


これを、男女逆転して考えられるだろうか?ということだ。
「ね。僕の取説、知りたい?」
うわぁやめてくれ! 知りたくない! 全力で遠ざかるよ私は。
というか、そんなこと言う男が想像できません。そもそもシーンとして成り立たないし。


「私の取説、知りたい?」は「私のこと詳しく知りたい? 私とつきあってみたい? だったら教えてあげるけど(ま、ややこしいからちょっとは覚悟してね)」という意味を含意する。含意どころかほぼそういう意味。若くて魅力的な女子力の高い人は、それをサラッと言えて嫌みにもならなかったり、むしろ殺し文句になったりするんだろうが、同じ条件の男子が言うと「いやだねぇ、ナルシーな男は」となる可能性大なので、大抵の男は言わない。たぶん。
女子の言う「私の取説」はハニートラップになりうるが、
男子の言うそれは、百年の恋も屁の一発。
どうしてそうなるのか。


「取扱説明書」とは、物について、それを人に提供する側が書くものである。書く人は「何でも知っているので教えてあげる人」。読む人は「何も知らないので教えてもらう人」。当然、書く人が優位に立っている。物の取扱いがややこしい場合、説明書は長くなり、「ちょっとは覚悟してね」という感じになる。
一方、物はどちらの人に対しても「取り扱われる側」として受け身の、文字通りもの言わぬ存在だ。そして女は昔から男に「取り扱われる側」だった。「ものは言わんでいい」と。まあ人間より物に近く見なされていたところがあった。
同時に、女は男にとって「謎」とされてきた。女を「謎めいて神秘的なもの」として欲望し、その「取扱い」がややこしくてわからなくて七転八倒する男の言説は、古今の文学作品を始め枚挙にいとまがない。


人間となった今、女も(ネタ混じりに?)「○○系女子取扱説明書」を半ば「私の取説」として書いたりする。これは、「何でも知っているので教えてあげる人」の優位に立ちつつ、「取り扱われる側」としての受動位置、および謎めいた位置もキープ、というアクロバットである(上記の理路から考えると、ですよ。書いている人の意識や思惑がどうかということではなく。ここんとこ誤解しないようにお願いします)。


男がそれをやろうとするには、「取り扱われる側」の位置にいったん降りねばならない。それで何となくプライドが傷つけられるという男性はまだ多いだろう。自分以外のものの「取扱説明書」はたくさん書いてきたが、自分について書くなど考えたこともなかったという人もいるだろう。だいたい男は、二つの立場に同時に立つような複雑なことをしないでも生きてこられた。
プライドを散々傷つけられてきたとする非モテ男性や喪男の人は、あえて受動の立場から主張したいと思うかもしれない。そういう意味では「生きにくさ」を抱えた女子と似ている。が、その「取説」があるとしたら、それは「教えてあげる」にはどう転んでもならないだろうし、そもそも非モテ男や喪男に「謎めいて神秘的なもの」など誰も見ない。欲望しない。
女だから「女子」だから、「私の取説、教えてあげる」ができるのだ。


(じゃ、非モテ女子は? まだ見たことはないが「非モテ女子取扱説明書」だって、おそらく何らかの欲望(「おお処女なのか」とか!)の対象になりうる。そんな性的視線の中で、完全に開き直れるわけでもない非モテ女子は、逆に男子の多いところであまり語らない/語りたくないだろう)


一連の「理系女子取扱説明書」では、ディズニーランドが好きな「ゆるふわ女子」と自分(達)との、はっきりとした差異が語られていた記事もあった。確かにお互い接点はあまりなさそうだ。
しかしどれだけ中身が違っても、女子力の高低があったとしても、それぞれ需要があるということにおいては、「理系女子取扱説明書」も「ゆるふわ女子取扱説明書」(Cancamあたりでやってるかも)も、「女子取扱い説明書」として同じ位相にある。
つけ加えれば、ジェンダー記号的にわかりやすいがゆえに揶揄の対象になりやすいゆるふわ女子ではなく、「ちょっと厄介な私」でありながら「普通の女の子」っぽいところもあるらしい理系女子の語りの方にこそ、私達を拘束してやまないジェンダーのリアルさや捩じれを感じる。


ところで、『負け犬の遠吠え』は、30代未婚子なしの女(しかも非モテではない)の「取説」として読むことができた。しかし40代でそれが書けるだろうか。
既婚、未婚を問わず、「私の取説」を含み込んだ「おばさん取扱説明書」「熟女(笑)取扱説明書」。キモくて誰も読まんわな。「文系男子取説」や「非モテ男取説」以上のユーモアと自虐をまぶさないと。いやまぶせばまぶすほどイタい結果になるかもしれん。相当な筆力が要請される。‥‥とほほ。