「男」という病、「女」という病

「性的消費」と「現実的消費」

ネット上には「旬の話題」というものがあって、いつまでも古い話題で引っ張っているのは無粋とされるらしい。文化系女子論についても、もういい加減この辺で打ち止め‥‥というムードが、ちょっと前からブログ界隈に漂っている。
でも、私は引っ張る。これは私のブログで書いてきた男女の話を、きれいにトレースしている話題だから。
ただ、文化系女子そのものの内実についてはどうでもいい。考えてみたいのは、「男」という病と「女」という病の違いである。


前の記事で「女をカテゴリー化しイメージ消費しないではいられないのが、「男」という病である」と書いた。
そう書くと思った通り、「女も男をカテゴライズしている」という反応が男性から来た(何事につけてもあくまで男女平等、男女対称でありたいとする気持ちからなのだろうか?) 
前の記事の追記で触れたこちらのブログでは、そのカテゴライズのあり方を私の記事をパロる形で記述している。
内容は、男への女のカテゴライズの根底には「自己保存」「遺伝子の保存」の欲求があるというもの。つまりそれは男のような「性的消費」ではなく、「現実的消費」だと。このブログ主は、女も男をカテゴライズするが、その内実は異なっている、つまり男女対称ではないと言っていることになる(これは重要な観点だ)。
女は「自己保存」のためにより強い男を求める。そして再生産する(男の子供を産む)。太古の昔からそれは事実としてあっただろう。
しかしそうであれば、それは「病」でなくて「本能」ではないかという言い方は可能だ。弱肉強食の世界で、メスが強いオスを求めるのは動物としての本能。
ただパロディ記事である以上、「「女」という病である」と書き換えたのだろうと私は解釈した。だからこの人の記事にいちゃもんをつける気は基本的にない。


さてそうすると、男が若い女を求めるのも動物としての本能ということになるだろう。若いということは、子供を産み男の遺伝子を残す能力が高いということだ。若くて美しければより性欲が喚起される。性欲を喚起しない女は「女」ではない。
だからそのことを戦術に織り込んでいるエビちゃん系OL達は、あんなに自信に満ち溢れているのだ。「私達は、女の本能に従って生きてます」「男の本能の首根っこつかまえてます」という自信。古今東西、このタイプが最強である。


文化系女子」萌えに対して出されていたのが、「メガネ男子」萌えである。件のパロディ記事につけた私のコメントに対しても、同様な意見があった。結局女も同じことしているではないかと。
これについては既にいくつかのブログで反論が見られたが、男目線の「文化系女子」の実体が定かでないのに対して、「メガネ男子」とはメガネの似合うカッコいい男の子という明確なビジュアルを言っているのだから、比較するのが間違っている。
「メガネ男子」に対応するのはエビちゃんOLである。エビちゃんOLが好きな男の欲望は、メガネ男子が好きな女と同様、わかりやすい。
また、じゃあ女の「クリエイター系男子」「アーティスト系男子」好きについてはどうだと言われれば、カタカナ商売のセンスよさげな男子イメージは、知的階層の上昇を望む女子にとって、かつての(動物として)「強い男」に替わるものだというだけのことである。
知的階層の上下はほぼ社会階層の上下に見合っているだろうという無意識の計算。同じカタカナでも「ヤンエグ」ではあまりにバブル臭く露骨である。


もしそれが自称クリエイターだったり自称アーティストだったりした暁には、「いつかは才能が認められて世の中に出るはずよ。そしたら私は不遇な時代を支えた先見の明のある女」ということで、一生芽が出ない貧乏クリエイターかもしれないことには目を瞑る。まあそんなことも大概の女は20代前半で卒業していくものだが。
そういうタイプの男を本当に好きになるとしたら、その仕事や作品に心底惚れてしまった場合に限られる。
クリエイターと言っただけで尊敬の目で見られたりモテるのは悪い気はしないが、作品もろくに理解してないのに無闇に近づいてもらってもなあ‥‥と思っているクリエイターはいるであろう。それは文化系女子の場合と似ている。

倒錯する欲望

カテゴライズなんてめんど臭そうなこと以前に、若くて美しけりゃ何でもいい。そういう"男の本音"を堂々と口にする人もいる。私の夫がそうだ。
テレビで若い女性タレントが何か喋ったりすると、
「このどアホ。でも顔が可愛いから許したる」
美人で知的っぽい人が何か喋ったりすると、
「同じことをブスが言ってても誰も聞かんわな」
非常に好みのタイプが出て来ると、
「ああいう女を三日でいいからオレだけのものにしてみたい」
何も考えず思ったことをダダもれで口にしているのであるが(まあ半分ツリかもしれないが)、ひどい物言いだといちいち怒る気にはなれない。
美しい女をモノにしたい、所有したい、男の欲望とは基本的にはそういうものなのだろう。これも別に「病」ではない、本能だ。


興味深いことに、古代ギリシャの知識人の間では、男同士の性関係は精神的で崇高なもので、女との性関係はそれより下の低級なものと見なされていた。女は知的活動を行わない下等な存在であると共に、男を誘惑し劣情を刺激し堕落させる邪悪な存在。
今では到底支持されない考えゆえに、キリスト教会が女を「邪」な存在としたと描いた『ダ・ヴィンチ・コード』には、全世界のキリスト教信者が反発している。ネット上だと非モテの一部の人が、恋愛からの「自己防衛」という観点で、女=邪という考えを支持しているようだ。


女が邪な存在かどうかは、私が女なのでよくわからない。しかし、女=邪、あるいは「女は魔物だ」と言う男の中にあるのは、性欲という本能がまさしく"劣情"であり「邪」なものである、という自覚だろう。そう自覚するからこそ、邪な劣情を喚起する女を必要以上に貶めてみたり、必要以上に持ち上げてみたりするのだろう。
処女っぽい女を賞賛するのはその最も古典的なものだが、男は文化を作ってきたので、女への欲望のあり方も次第に多様化した。
手のかかりそうな女を陥落したい、気位の高い女を跪かせたい、逆に小悪魔タイプに振り回されてみたい、聖母タイプに何もかも受け入れてもらいたい。
ありとあらゆる女のイメージを、クリエイターやアーティストの男はフィクションとして描いてきた。劣情を劣情としてそのまま認めるには、男はナイーブ過ぎるのかもしれない。


それは当然「若くて美しい女を妊娠させ自己の遺伝子を最良の形で残したい」という動物的本能からは、逸脱し倒錯する。「虚弱タイプな女に惹かれる」とか「幼女が好きだ」なんてのは、子作りという観点からするとアウトだ(後者は実行に移せば道義的にもアウト)。
だが逸脱、倒錯していくのが文化であり、動物とは異なる人の性である。
そして男の性欲は能動性を旨としている以上(だって男が勃起しないとセックスできない)、男を威圧するような女よりより「下方」の女に向かう傾向が強いのは、たぶん今も昔も変わらない。


昔に比べて、女が男の経済的庇護を求めない時代になったと言われる。「いかなる社会の中でも強く生き延びて、自分と子供を保護してくれるような男を選ぶ」という現実的な選択を志向するエビちゃん系は多いが、女の好みも多様化したのだと。
しかし女の好む男の種類が多様化したのは、主にフィクションやファンタジーの中ではないか。「メガネ男子萌え」などと言っていても、最終的に「いかなる社会の中でも」タイプを選ぼうとする女が多いのは、女の結婚相手の条件を見ればわかる。
ということは、弱肉強食の掟は、ちょっとやそっとの社会構造の変化ではなくならないということだ。


一方、男のファンタジーの最前線と言えば「萌え」。それはもともと、二次元対象に限定された欲望の「フィクショナルな快感」であった。欲望が"現実に"叶えられてしまうことは回避したいがゆえの「フィクショナルな快感」。
三次元の厄介さや複雑さには触れずに萌えていたい。そして様々な女の子のイメージを消費したい。それはもう「遺伝子の保存」とか何とかいうことからはかけ離れた、完全自家発電の世界である。
そこに「再生産」はない。それでも男はそれをやめられない。「萌え」対象への耽溺ぶりは、女のそれをはるかに上回る。
そして、二次元だけでなく現実の女についても、イメージを通して萌えるようになる。三次元の生身の女を脳内でイメージ変換して欲望する。
なぜ? 「女」なんか幻想の産物だという事実から逃亡するためだ。それが「男」という病ではないか。


だから、どれだけ「女」のイメージ生産、消費をやってみても、「女」とは何か?ということは、わからない。わかるわけない。「女」はいないのだから。
もちろん当の女にもわからない。男が創造するどんな「女」のイメージに自分を当てはめてみても、なりきってみても、常にそこからはみ出す自分がいる。しかし生物学的な女としての自分は、既に存在してしまっている。そしていつからか「女」として生きてきた(ような気がする)。
いったい「女」って、私って何よ。そのことに苛立ち右往左往するのが、「女」という病である。


おそらくどちらの病も完治はしない。