「暴言を吐く」

マイナスの符丁の効果

二日ほど前、あるブログのある記事にコメントを入れたら、そこの書き手と大量の議論の応酬となり、今日の夜中はなんと三時過ぎまで書き込みをした。最後は私がブチ切れて議論から降りた。まあ大人げない態度ではあるが、どうしてキレたか興味のある方は、こちらのブログの8月9日の「存在理由」という記事とコメント欄をご覧下さい(07/11/23追記:現在ブログは閉鎖されてます)。


論争となったのは、
フェミニズムは80年代のキャリアウーマン幻想に積極的に加担したことによって、出産、育児の価値を不当に貶めるデマゴーグを流し、結果的に今日の子供の過酷な状況(幼児虐待、援助交際など)を作る要因の一端を作ったのではないか。それについての責任を取らなくていいのか。家族、子供というものをきちんと位置づけないと、フェミニズムはどんどん社会から乖離していくのではないか。そういう言説をフェミはきちんと作ってきたのか」
という、そのブログの書き手のフェミニズムへの問いをめぐるものであるが、それについてはまた時間のある時にゆっくり書きたいと思う。


私が興味深く思ったのは、ブログの書き手がやりとりの最中、自分自身を指して「時々挑発的に暴言を吐く」と書いたことである。それについて議論の中で数回のやりとりがあったので、そこだけ抜き出してみる(●がその書き手、■が私の発言)

●ありがとうございます。時々挑発的に暴言を吐く獣です。反応があるとうれしいです。
■しかし私には、fire-walk-with-meさんが何のために「挑発的に暴言を吐」いておられるのかわかりません。別にわからなくてもいいのかもしれませんが。
●もちろん、ごくまれにですがこうやってつっこみがあり、議論になり、勉強になるからです。またこれを読んだ読者(とても数は少ないですが、います)に、「私はどう思うだろう?」っていう発想のきっかけになれば望外の喜びです。
挑発的な暴言といえば、大野氏のブログや連載も十分に挑発的な暴言に満ち溢れていると思いますが。大野氏もなんらかのアクションやらつっこみを期待して、つまり問題の共有化と発動を期待して、あのような文章を書いていらっしゃると思っていましたが。
■「暴言」については、なぜフェミニズムについて?という疑問で書かせて頂きました。
また「暴言」かどうかは読者が判断することであって、書き手としての私はそのように思っては書きません。何か喚起したいという気持ちと、「私は暴言を吐きますよ」と公言することとは違うと思います。
●暴言については僕はフェミニズムのみならず、最近では名古屋の悪口やら現代の日本の寺やら読む人によってははらわたが煮えくりかえるようなことをたくさん書いています。とくにフェミニズムについてことさらに暴言を吐いているわけではありません。他でもバンバンはいてます。


「十分に挑発的な暴言に満ち溢れている」と返された点については、私はスルーした。そういうことをいちいち書くと、議論が脱線していく。
この人の文章については、フェミニズムに対して前から遠回しに揶揄したり、イチャモンをつけるような表現、話法が時々ある(最近はそういう風潮が強まっているので、どこにでも見られることだが)とは感じていたが、暴言とまでは思わない。
また他の記事も別に、暴言というほどのものではない。
私の最初の発言で、「挑発的に暴言を吐」に「」をつけたのは、相手がわざわざ自分でそう書いていることに注意を喚起したかったからである。


一般に、あえて暴言めいた発言をするという行為は、議論が沈滞化した場合によく使われる戦略の一つではある。
問題は、挑発に乗って真っ向から「暴言」を批判してきた人と、その後どういうふうに対話を展開させていくかということだ。確信犯的に暴言のまま押し通すなら、潔い。押し通してそれがスジの立った面白い論になっているなら、むしろ脱帽である。
しかし多くの場合、「あえて暴言を吐いたけど、実はこういうことも一応考えているし、理解はしているんですよ」という取り繕いが始まる。
あるいは立ち位置がいつのまにか巧妙にずらされていて、相手が振り上げた拳をどこに下ろしていいかわからないようになる。悪くすると拳を振り上げた足下を後ろから掬うような"攻撃"をして、戦意喪失させるかブチ切れさせる。
そういう場面を、いろんなブログのコメント欄やBBSで見てきた。


だから、「暴言」はあくまで方便であり、自ら堂々と公言するようなことではないと私は思う。しかしこのブログの書き手にとって「暴言」は、どうやらプラスの作用をもたらすものとして捉えられているようである。
「挑発」は、場合によってはいい意味で使う場合もあるが、「暴言」は、怒りや反発や顰蹙を買う言葉である。そういう通常はマイナスの符丁がつけられている言葉を、あえて自虐的に自分に被せてみるという行為は、一種の気取りである。
しかも、自分のことを「獣」と言ったりする人である。「獣」に理性はない(本能しか)。「暴言」どころか、「怒ったら吠えるぞ、噛みつくぞ」というイメージを、書き手としての自分に付与したいのかもしれない。
このブログ「獣たちの種子」は、タイトルの横にサブタイトルのようなものをつけており(時々変更されるが)、最近は「〜圧倒的独断偏見充満芸術系馬鹿話+名古屋の悪口ほぼ毎日更新中〜」となっている。自分の文章を自ら「圧倒的独断偏見充満」なものと位置づけているのである。これも気取りのひとつであろう。


私も昔「犬に噛まれたと思って」というタイトルで、文章をフリーペーパーに書いていたことがある。一緒にフリーペーパーをやっていた友人たちが、面白がってつけたのを私は結局受け入れた。ここには「(この文章に書かれても)犬に噛まれたと思って諦めてくれ」というニュアンスがある。面白いと言う人はいたが、今思えば、恥ずかしくもおこがましいタイトルだった。ブログやHPのタイトルでこんな感じのものは、時々見かける。

ブログを書くということ

「これは私の独断と偏見だが」とか「これは暴言かもしれないが」とか、前もって言ってから何かを書き始めるのも、よくあるケースであろう。
ちょっとベクトルは違うが、「私バカだからわかってないけど」「アホな僕の言うことなのであれですが」「頭悪いんでよくわかんないけど」という書き出し、言い出しも、よくある。私も昔似たようなフレーズを、会話で使ったことがある。
こういう場合、自分のことを心底バカでアホで頭悪いと思っているわけではない、というところがポイントである。それを言うことで、何かから自分を「防御」しているのである。
何からだろうか‥‥相手の矛先からだ。バカ、アホ、頭悪いと自らマイナスの符丁を自虐的にまとうことで、対等の議論という土俵から降り、でもものは言いたい(批判を受けずに)という姑息な態度がそこにある。


「暴言」も「圧倒的独断偏見」も同様である。自分で心底そう思ってはいないはずである。
暴言風に聞こえるがよく読めばまっとうな論であり、独断と偏見に聞こえるが意外と正論である、との自己認識がある。でなければ、いい大人がわざわざ文章を公開などしない。
しかしこの場合、相手から「それは暴言じゃないか」「それはあなたの偏見じゃないか」と批判された場合、「ええそうですよ、そう言ってるじゃないですか。それが何か?」と開き直ることは可能だ。
またその前に、ここに書くのは「圧倒的独断偏見」の下での「暴言」なんだから、読む人はそのつもりでね、と前もって防衛線を張ることにより、議論を仕掛けたり批判をしたりしようとする人の出鼻を挫くことも可能だ。


件のブログの主がそういうことをしていると言うのではない。そういうこともできる"網"を、あらかじめ言説全体にかけているということである。
言説に強いバイアスがかかっているという先入観を与えておけば、「読んでみると、それほど独断偏見じゃないのでは?」と思わせることはできる。それは効果的なギャップかもしれない。


たかがブログタイトルや相手の言った言葉を、そんなふうに深読みしなくてもいいじゃないかという見方もあろう。しかし私は読む。そして、なぜその言葉が使われているのかを考える。すべての言葉(発言)には、「意味」があるから。本人も知らない「意図」が隠されていることがあるから。そういうことをフロイトも言っている。


議論を仕掛けた私は、「大野氏の書くものも挑発的な暴言だ」と言われた。もしかすると「獣」さん流の"褒め言葉"だったのかもしれない。
しかし自分のブログの文章が、そういう意味ではなく、字義通りの悪い意味で受け取られる可能性を私は否定しない。このブログに、「それは暴言じゃないか」「あなたの偏見じゃないか」という意味の書き込みをされたことはあるし、メールを頂いたこともある。


でも私は自分の書くものを、最初から「挑発的な暴言」だと位置づけていない。どんなに辛辣な言葉を使ったとしても、切って捨てるような書き方をしたとしても、それは本当にそう思っていて、その時どうしてもそう書かねばならず、それ以外にさしあたって言葉の選びようがないと思って書いている。
暴言だと受け取る人はいるかもしれないが、私にとっては断じて暴言ではない。だから「私は時々暴言を吐きますよ」と自ら書くことはない。
それでも、書いたことが批判され議論になり、「これはやはり紛れもない暴言だった」と自分で思えれば、発言を取り消して謝りたいと思っている。BBSの議論では、過去にたびたびそういう体験をしてきた。させてもらってきたと言った方が正確かもしれない。


そんなことを今日考えていたら、最近始まったばかりの宮田さんの今日の「自我闘病日記」に、まさにこれとリンクするようなことが書かれていた。全文は是非直接参照して頂きたい(現在ブログ閉鎖されてます)が、以下に一部を抜粋させて頂く。

自分の文章に自ら「耐えがたく堕落している」と評価を下した場合、字義通り受け取ってもらえるかといえば、それはかなり難しい。むしろ、そのような自己評価は、このひとは何を言わんとしているのか、という問いを生むことになる。
このひとは私に「そうではない、それなりにおもしろく読める」と評価してほしいのだろうか? それとも「本当にそうだね」と罰してほしいのだろうか? いや、批判を自ら先取りすることで他人からの批判を予め封じようとしているのかもしれない。
相手が自分の文章に対して忌憚なく意見をのべる機会を奪い、ためらうようにし向ける、そのような言語的操作が、自虐的自己評価の正体である。


これを読んで、自分の文章は「暴言」ではない、まともな内容だと信じて書いている私でも、自分自身のことを書くとなると、人に指摘される前に卑下してみせる傾向があるのかもしれないと思った。自分のことを書く時、やはりそこに"恥じらい"や"謙虚さ"がないと、ナルシスティックで読むに耐えない文章になるのではないか。そういうふうにどこかで計算しているということだ。
「正しい自己評価」を言葉にすることは、「正確な自己分析」と同様、究極的には不可能である。でもだからと言って、最初から私の文章は偏りがある、バイアスがかかっていると公言することも、私はしたくない。そこにあるのは、やはり裏返しのナルシシズムだからだ。