正しい妹たち

スーザンとルーシー

ナルニア国ものがたり』シリーズの中の『ライオンと魔女』がディズニーで映画化という話を聞いた時は、「ええ〜?やめてそれだけは」と思った私であるが、いよいよ来春三月の日本公開を控えて、もう落ち着かない毎日だ。観たくない気持ち半分、観たい気持ち半分。まあ結局観に行くことになるだろう。
観たくないというのは、多くのナルニアファン同様、あまりにも原作のイメージが自分の中に出来上がり過ぎているので、それと一致しないところがもしあると嫌だから。

ライオンと魔女(ナルニア国ものがたり(1))

ライオンと魔女(ナルニア国ものがたり(1))


小学校4年の時に第一作目の『ライオンと魔女』を読んで以来、個人的に最もハマった「お話」の一つがこれである。二十歳過ぎてからようやく原書(『ライオンと魔女』のみ)も読んだ。それ以降、4年に一回くらいは全七巻を通して読み直しているほどのハマりよう。


ナルニア国ものがたり』は、イギリスの作家C.S.ルイスによるファンタジー児童文学で、1950〜59年にかけて出版され、これまでに全世界で8500万部売れたというロングセラーである。
ナルニア国には、ものを言う動物や妖精や巨人や小人などが住んでおり、現実世界から少年少女達が魔法の力でその世界に引き込まれ冒険をする。一種のパラレルワールドだ。ナルニアの誕生から滅亡までの数千年(現実世界では数十年)の年代史が、計七つの物語で語られているが、発表順は物語の時系列に沿ってはいない「スターウォーズ形式」となっている。
これが、ファンタジーの形を借りたキリスト教の物語だというのは、よく言われることである。ゴルゴダの丘の処刑も復活も最後の審判もある。
それはまあいいとして、ナルニアと対立する国として、どう見てもトルコかサウジアラビアあたりのイスラム圏に見立てた「タシバーン」という異教の王国が登場するのが、微妙なところだ。
もし今回の『ライオンと魔女』が大当たりして全七話制作ということになると、このあたりをどう処理するのかは問題となろう。


さて、『ライオンと魔女』には、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーという四人の兄弟姉妹が出て来る。エドマンドが途中まで「悪い子」なのであまり目立たないが、姉のスーザンと妹のルーシーの対比が興味深い。
スーザンは、姉らしく優しくて思いやりに溢れており、無茶な冒険よりは現実的な選択をするタイプ。ルーシーは、好奇心旺盛で勇気があり直感力に優れている。最初にナルニアに行くのもルーシーだし、兄姉達の危機を救うのもルーシー。一番末っ子が、一番魅力的なのである。
しかも、シリーズ最後の物語となる『さいごの戦い』では、スーザンだけは魔法の力に呼ばれてナルニアに来ることができない。その理由は、ナルニアなんて夢物語よりも、おしゃれや男の子の方に興味が移ってしまったから。子どもから「女」になってしまった者には、冒険はできないという宣告がなされている。


冒険はそもそも「男の子」のものである。そこに参加するのに、色気づいた「女」じゃいかんのである。そういう者はすぐピーピーキャーキャー騒いで敵に居場所を知られたり、ちょっと困るとメソメソ泣いて男の子に助けを求めたりするので、足手まといでしょうがない。ルーシーくらいジェンダーを超えた女の子、それも末の娘だけが、男の子の冒険に参加を許されるのだ。
初めて読んだ時、そこのところがちょっとショックだった。常に妹ルーシーの方が印象的に描かれる上に、あんなに献身的だった姉のスーザンは最後で物語そのものから疎外されてしまうとは。
いつも正しいのは妹。皆に愛されるのも妹。
妹ではなく姉である私は、ルーシーに魅せられながらもスーザンの"変節"が残念でならなかった。


考えてみると童話ではいつも、姉より妹が「正しい」ことになっている。『美女と野獣』(三人姉妹)も『シンデレラ』(三人異母姉妹)も、我が侭な姉達に比べて妹はまるで天使のよう。兄より弟が「正しい」のも多そうだ。『イワンのばか』とか兄弟ものの多いロシア民話では、たいてい弟がいい奴である。
いざという時に知恵と勇気を発揮するのは、末っ子。『長靴をはいた猫』のように、一番損をしたと思った末っ子が一番得をしたという話もある。兄さんが得をした話は聞いたことがない。
若草物語』とか『細雪』などの四人姉妹では、対立は表面化しないし、誰がワルモノということもない。最近の映画『イン・ハー・シューズ』は、仕事はできるが容姿に自信のない姉と、出来の悪い美人の妹の組み合わせで、いろいろ対立や葛藤の末に感動的なラストが訪れる。
しかしはっきりした教訓を旨としていた童話では、ワルモノは姉。最後に幸せを掴むのは妹なのである。

姉の立場

今ではそういうことはあまりないが、昔は下の者は上の者に絶対服従であった。
子どもの頃から将来の家長たる兄が一番偉く、兄がいなければ姉が偉い。末の妹や弟などはお兄さんお姉さんの言うことに従って、でしゃばらないようにしてないと怒られる。着るものだって全部上のお下がりである。
しかも兄や姉は往々にして親の覚えがめでたく優等生だったりするが、弟や妹はちょっと変わり者で「困った子だね」などと思われていたりする。
兄、姉と弟、妹の間には、明らかに階級差があった。そして童話では、階級が上の者は邪悪で、下の者は心が清らかと決まっていた。だからこそ、下だった者が上をはるかに上回る目の覚めるような大活躍をしたり、上からの抑圧をはねのけて最後に幸せを掴むことになっているのだ。
童話はだいたいにおいて、弟や妹、つまり階級の下の者の物語である。


現実はどうだろうか。出来のいい兄、姉と出来の悪い弟、妹というパターンはあったとしても、可愛がられるのはだいたいにおいて、下の者である。何でも多めに見てもらえるのも、下の者。兄、姉は常に上の者であるというプレッシャーをかけられている。少なくとも、私のところはそうだった。
お姉さんなんだから我慢しなさい。お姉さんなんだから妹に譲りなさい。お姉さんなんだからしっかりしなさい。お姉さんなのにそんなことでどうするの。
そういうことを物心ついてからずっと言われてきたので、幼稚園に一緒に通うようになると、「姉意識」に凝り固まった私は緊張で毎日疲れていた。特に園から帰る時。幼稚園バスが到着しているのに、妹がどこにも見当たらない。どんどん皆が乗り込んで行き、早くしないとバスが出てしまう。半泣きでオロオロ探しまわる私に、バスの窓から「おねえちゃーん、早くー!」と呼ぶ妹。
妹は要領がいいのである。


だんだん彼女のことが疎ましくなり、近所の同学年の友達と遊ぶ時は、あまり妹について来てほしくないと思うようになった。いつも人形やら人形の哺乳瓶やらを乗せたオモチャの乳母車をガラガラ押してついてくる妹は、私の友達にとってもちょっとウザい存在。そんな者を引き連れていては、遠出もできない。
が、妹の目を盗んでようやく坂の下(私の家は坂の上にあった)まで来たところで、必ず彼女は抜け駆けしようとする姉達を目ざとく見つけ、置いて行かれまいと大声で喚きながら、乳母車を押して転がるように坂を駆け下りて来るのである。「あ〜あ、見つかっちゃった」と溜息をつく友達に、私は「ごめんね、一緒に連れてって」と頼む。
妹は、諦めるということを知らない者である。


雨が降って外で遊べない日は、妹の赤ちゃんごっこにつきあわされた。私は赤ちゃん役。ダンボール箱の中で丸まっている私に、妹は「ホラ、みーこちゃん、ごはんでちゅよ」(どういうわけか「みーこちゃん」が妹の「子ども」なのである)などと声をかけて、私は「バブー」などと言わされているのである。
それが屈辱的だったかというと、意外とそういうこともなくて、この時間だけは「姉役」をやらなくて済むので、むしろ気楽だった。親はいったいどういう目で見ていたのであろうか。
親は妹には比較的甘かった。親から「正しさ」を常に求められていたのは、姉の私の方。
だが「正しさ」を求められているのと、「正しい」のとは違う。妹がせっせと母の手伝いをしているのに、私は「宿題がまだ」という理由で自室に閉じこもりマンガを描いて遊んでいるところを、父に見つかり叱られた。
将来「いいお嫁さん」や「お母さん」になるのは妹の方と決まっていた(実際そうなった)。


化粧を私より早く覚えたのも妹である。二十歳過ぎても時々妹のお下がりをもらっていたのは、私である。
そして妹はこの十年以上、子育てに熱中している。一度家に遊びに行ったら、隅々まで恐ろしいほどキチンと片付いていた。彼女は「正しい」主婦をやっていた。本や雑誌や書類があちこちに山積みで、灰皿に吸い殻が溢れている私のとことはえらい違い。
「おねえちゃん、歳とって二人きりになったら一緒に暮らそうね」と言われているが、うまくやれるかどうかあまり自信がない。