女しか言わないセリフ

「私のどこを好きになったの?」

女は、つきあっている男に「ねえ、私のどこを好きになったの?」と、必ず一回は訊きたがるものであるという。知っていても訊く。人によっては何回も訊く。
私はそんなこと訊いたことも気にしたこともありません!という人は、いいのです。一般論として、その傾向があるらしいということだ。
そのことがある時、内輪で話題になった。その話を持ち出したのは男性で、その場には女性が4、5人いたが、誰もはっきりとした解答をしなかった。「私はそんなこと訊いたことないし‥‥わからない」ということだったような気がする。


私は、そのセリフを口にしたことがある。その時は「さあな、忘れた」というあっさりした答で終わりになった。
結婚して十年近くも経ってから突然訊いたのが、よくなかったのかもしれない。それも喧嘩の最中で、そこに「もしかして私のことずっと誤解してたんじゃない?」という意味が(悪意として)含意されているのを察知すれば、誰でも答えたくなくなって「さあな、忘れた」と逃げるであろう。


しかし普通、喧嘩ではなくラブラブなシチュエーションで、「忘れた」などとはぐらかされると、女はますます食い下がりたくなるものだ。「忘れた」を文字通りの意味ではなく、照れと受け取れば食い下がりも可能。そういう時に男は、「そうだなあ、目かな」だけでも、「優しいところかな」だけでも、答としてはダメらしい。
「目」だけを褒めるとは、モノとしてのみ女を愛でていて「私の人格は無視なの?!」ということになり、「優しい」ところだけを褒めると、「どうせ外見は自信ないわよ!」ということになってしまうから。 
従って、外見と内面と両方一個ずつ褒めよ。そういう男向けのアドバイスをネット上で見たことがある(アドバイスしているのは男性だった)。


つまり、女は男に「モノとしてもヒトとしても見てもらいたい」ということである。
マブい女としても選ばれたいし、デキる人としても認められたい、その欲求の両方を同時に一人の相手で満たし、時々確認して安心したい。
で、こうやって褒めれば問題は起きない、ということなのである。


「私はあなたのここが好きになりました」と相手に言いたい気持ちであれば、わかる。相手に好意を持てば、なんらかの形でそういう表現をしようとする。
が、相手にそれを言わせたいというのはわからない。‥‥いや、この言い方は適切ではない。言ってもらえるものなら、言ってほしいのはやまやま。ただそれと、わざわざ訊いてまでして言わせる態勢を取ることとは、かなり隔たりがある。
そもそも相手が自分のことを好きだという事実は、了解しているのである。そこにさらに「私のどこを好きになったの?」というのは、賞賛を強要しているということである。自分を賞賛するのにやぶさかではない安全な相手に対しての、「褒めて」の強要。それを言わせた後でどうしようっていうのか。


「どこを?」というのは、言質を取りたいということでもある。「ただ単に好き」では満足できないのだ、具体的に言ってもらわないと。
でも相手を好きになった時、あえて「どこ」なんてことはあまりなかったりする。なんかよくわからないが、「全体的に」気に入っているわけで。逆にある一点に惚れてしまったので、他のことはわりとどうでもいい状態。
なのに、わざわざそれを面と向かって言わせ、言質を取ろうとする女。私が男だったら、それを訊かれた時点でドン引きだが、男は「かわいいやつだな」と思ったりするのか。

愛のセキュリティ

さて、この質問を男はしないらしい。これは、件の話が出た時点でその男性も言っていた。私も、男はしないだろうと思う。今までそういうことは、幸いにも訊かれたことがない。
そのシチュエーションを想像するとかなり気持ち悪い。付き合い始めてしばらしくて、「ねえ、僕のどこを好きになったの?」なんて言われてみなさい。百年の恋も屁の一発だ。
どうして男は訊かないのだろうか。女に対して、褒めてくれというお願いモードになれないからだろうか。自信があるからだろうか。
たぶんそんなこと考えもしないか、思っていても口に出すのはちょっとという気持ちがあるからではないかと思う。
なのに女はよく言うものだとすると、それは女が救い難くナルシストだからという理由しか思いつかない。


もう一つ、女しか言わない言葉がある。セキスイハイムのCMの女のセリフ。
「幸せを約束してくれますか? おばさんになっても、今よりもっと幸せにしてくれますか?」
YESという答えをあらかじめ想定した問いである。決してネガティブな返答は返ってこないと見越している点で、「ねえ、私のどこを好きになったの?」と似ている。
「幸せ」の中身がよくわからないが(よくわからないのがまた怖いが)、将来「今よりもっと」大切にされて「今よりもっと」経済的に豊かになっている‥‥といったことだろうか。
CMの女優は微笑みながら言っている。まあこんなことを必死の形相で言ったら引かれるだろうけど。
たぶんこれは、プロポーズされた女が、男に返したセリフということになっているのだろう。しかしこんな返し方もないと思う。これでは実質「脅迫」である。微笑みながらの「脅迫」。「脅迫」でも美人女優が奥ゆかしい雰囲気で言えば、ステキなセリフとして受容されるだろうということで、採用されたのである。


男が同じことを女に言うだろうか。決して言わないと思う。「幸せを約束してくれますか?」ですよ。言わないでしょう。
どうしていけしゃあしゃあと女は言えることになっているのか?というと、「女の幸せは男次第」という神話がいまだにあるからだという、つまんない話になる。


「おばさんになっても」というのが、ポイントだ。「私がおばさんになっても」と歌っていたのは森高千里であった。アイドルの歌に「おばさん」という単語が将来の自分を指す言葉として出てくること自体、珍しいことだった。その歌詞がリアリティがあるということで、評価されていた。
女が「私がおばさんになっても」と言うのなら、男が「僕がおじさんになっても」と言っても本当は不思議ではない。「おばさん」が女の価値下落を意味する言葉なら、「おじさん」も同じなはずだ。
しかし、男は相手に「幸せにしてもらう」のではなく、相手を「幸せにする」立場だとされているので、そういうことを言えない。
単に「幸せにする」だけではなく、女の何十年後かの幸せをも「約束」(保障)する立場。そんなこと今時誰にも保障できないにも関わらず。


「幸せを約束してくれますか?」は、愛のセキュリティの万全を問う言葉である。「生涯保険」としての男に、そう確認しているのである。そして時々「私のどこを好きになったの?」と安全チェックを怠らないようにしなければ。
どちらのセリフにも「わからない」と正直に答える男は、女に嫌われる。
これが普通だとしたら、恋愛も結婚も面倒だと思う男が増えても仕方ないと思う。