「抗議」をめぐって

変な議論

今日、このブログのコメント欄で展開されていた「議論」を読んで、なんとなく脱力してしまった。
そこは例の「上野千鶴子vs東京都」事件の抗議署名を呼びかけているブログの一つで、抗議サイトでリンクされていたので発見したところ。たぶん若手のジェンダー研究者の人のブログだと思う。


「議論」を簡単に要約すると、コメント欄にまずAさんが
「こういう抗議行動は、都に公開質問状を出して回答待ちの上野千鶴子の足をひっぱる先走りで、拙劣だ」
ということを書き込み、Bさん(ブログ運営者ではない)が
上野千鶴子はこの抗議行動を容認しているんでは?」
と反論し、それに対しAさんが
「そんなことはない。これは彼女の意思を尊重しない身勝手な行動だ」
と言い張り、更に
「署名の呼びかけ人にCという気に食わない奴がいるから、私は署名しない」と言った。
なんじゃこりゃ? 
私が今回の事件と抗議のあらましを知ったMLでは、上野千鶴子が参加者に抗議の声を上げてくれと呼びかけて、それもあってこういうことになったはずだが。
というか、同じサイトに抗議文と上野千鶴子の公開質問状が掲載されているのだから、上野千鶴子は署名活動を知っていて当然である。なんでAさん、勝手に上野千鶴子代理人みたいなの?


と思っていたら、Bさんがすぐ後で事実関係に気づいたらしく同じことを書いていて、Aさんに
「あなたもMLに参加しているならそれは知っているはず。なぜそこで反対意見を言わないでこんなところで非難しているのか。本音は呼びかけ人の中に個人的に嫌な奴がいるからってだけでしょ」
と言った。Bさんがその発言の中でリンクしていた掲示板に飛んでみたら、そこでAさんは
「Cが気にくわないから参加しない」
ということを最初から書いていた。こうなると、もう泥試合である。Aさんはまだ反論していたが、いやはや何ですかねこれは。
今回の事件には憤りを感じているのだが、抗議文の呼びかけ人に嫌いな奴がいるので、署名はしたくない。それはそれで一つの理由である。どんな活動の中にも、多人数が集まれば必ず嫌いな奴は出てくるものだ。
それがどうしても嫌なら黙って個人行動すればいいわけで、あいつが嫌いだから行動も共にしない、とあちこちで書くのは自由だけど大人げないような気がする。


最後は、Dさんが署名不参加の意見を書き込んでいた。まず「ジェンダー・フリー」という言葉を巡って上野千鶴子と抗議文とではスタンスが違うので、「これは上野氏の事件を利用した自分に都合のいい方向への誘導ではないかという懸念を覚え」ると。今度は陰謀説ですか?(でも「自分」って誰だろ)。
しかし、この抗議文にはML上で上野氏も意見を述べていて、いわば了解済みのものだ。また、「ジェンダー・フリー」は幅のある言葉なので研究者で使ってない人が多い(自分も使わない)が、人が使うのは構わないと公開質問状の中で言っている。
抗議文が「ジェンダー・フリー」という言葉の説明をしたのは、その言葉が今回のように目の敵にされることによる、ジェンダー研究自体に対する誤解を払拭したかったからだろう(説明にはちょっと問題があるが)。
しかしDさんの意見から受ける印象は、ジェンダー研究者の中で「ジェンダー・フリー」を使用しない派と使用する派が、ドロドロの権力闘争を繰り広げているといった感じ。


Dさんのもう一つの意見は、「抗議に対する批判や要望を表明する公の場が用意されていない」というもの。
これは抗議文がそもそもあるML内で作成されたものだから、そこに参加している人しか無理だ。抗議文を公にした側が、また改めて「批判や要望」まで面倒見るのは大変である。そんなことやってたら収拾がつかなくなる。
何か言いたい人は、自分のブログでやればいい。抗議はしたいがこれには乗りたくないと思ったら、自分で別の抗議文作って都に提出すればいい。その手間が面倒だから私は署名だけで済ませた。


最初は面白半分に読んでいたが、だんだんうんざりしてきた。ここで署名不参加を表明している人が、なんとなく上野信者っぽい雰囲気なのが気になる。上野氏本人が了解していることを「いや、違う」「あの人はそんな人ではない」と言い張っている。そして抗議側については「胡散くさい」と。
なんだろこれ。気持ち悪い。

参加、不参加の理由

私は、そんなに多くのジェンダー研究者の人達のことを知らない。自分がこの数年、大学でジェンダー入門の授業を一個受け持っているだけで、これまでそういう「活動」をしたこともない。もともと団体行動とか一致団結とかが好きじゃないというのもある。今回はただ「石原憎い」という怒りの方を優先させた。
抗議文の「ジェンダー・フリー」については、一般の人が読むとたぶんわかりにくい。MLの中でもそう思っていた人は多いのではないかと思う。作成に当たって、いろんな人がいろんな意見を言うわけだし。
だから誰が読むかわからないブログで、あの抗議サイトにリンクを張ってただ「署名をお願いします」と書いているのは不親切だと思う。最低でも分かり易く解説して自分のスタンスを示すか、解説の代わりになるサイトを紹介しておくべきだ。
一方、ブログのリンクを辿っていくとフェミニストで冷ややかな対応の人もいる。「あなたたちのそういうやり方がバカなのよ」「おまつりやりたいだけでしょ」みたいな。
署名はしたけど、言いたいことはあるという人もいる。いろんな人がいて、フェミニズムジェンダー論が一枚岩じゃないことを実感できる。署名云々より、こういうことをきっかけにしていろいろなスタンスを知ることの方が、有意義だったりもする。


さて昨日、上野千鶴子のエッセイが信濃毎日新聞熊本日日新聞に発表され、ウェブ上でもあちこちに貼られた。それを読んで私はかなり微妙な気分になった。
彼女は「売られたけんかを買っただけ」と書いているが、文章全体からは、超有名フェミニスト上野千鶴子が単独で都に闘いを挑んでいるという、この人独特の威勢が伝わってくる。まあ事実としては確かにその通りである。「ことは上野個人の処遇に関わらない」のもその通りである。
しかし上野千鶴子のこういうパフォーマティブで勇ましい書き方は、私の感覚には受け入れにくい。
「勇ましさ」や「威勢」は、名もなく地位もない人の特権である。権力がないから、そういうものを発揮するしかないのである。
東京都知事とけんかを始めた」って、名もなく地位もない人が書いたら凄みもあるが、あんた東大教授やんけ。けんかに負けたって相手にされなくたって、東大教授には変わりないやん。
東大教授vs都知事。権威vs権威。女のオヤジvs 男のオヤジ。偉いさん同士で勝手に喧嘩しとったらええねん(なぜに大阪弁)。
言いがかりくさいが、まあちょっとそういう気分になったのだった。


こういう感情が、署名不参加の理由にもなりうるわけだな。そう思っていたら、やや違う角度から大変スッキリと説明してくれる言葉が入ってきた。前回ツッコミ欄の閲覧者さんの書き込み(旧ブログのコメ欄の復元ができません)。この事件のある本質を言い当てている。それはうすうす感じていたことではあった。
あーでももう署名しちまったんだよそれは取り消せないのだよ。‥‥まあいいや。そういうことがあって、こういう書き込みもあり、いろいろ考えるきっかけになったってことで(おい)。
閲覧者さんの書かれたように、相変わらずの二項対立では、対外的には何もフェミニズムのイメージは変わらないということだが、上野千鶴子でなかったらどうなんだろう。そんなに有名じゃない人だったら? 見過ごされていたかも。
あの上野千鶴子だから都教委は反応したのだ。そして「石原=男根主義者対上野=フェミニズムという単純な二項対立」ができ、理由はどうであれ1500人超(昨晩の段階)の人が署名した。
その中には「上野先生が女性の意見の代表/表象する」というイメージが保持されること、ひいてはこの件に関し署名することが、自身の政治的立場を利すると考える人もいるだろう。憶測だが一人もいないってことはない。
逆に「上野先生」を信奉するあまり、他人の先走りを苦々しく思って署名不参加の人もいる。考えてみればこういうことは、どこにでもあることである。


わかりやすい構図、わかりやすい抗議の中には、いろんな思惑が渦巻いているのだろうということを目の当たりにした今回。
だが、そんなことはどうでもいい世間には、「またかよ」という印象でしかないかもしれない。フェミニズムジェンダー論も関係ないから勝手にやってろと。
大学を中心としたジェンダー研究が窮地に追い込まれたら、在野でやればいいじゃん(やってる人はいるし)とは思う。自治体でできなくなったら民間ですればいい。民間でできなくなったら個人的サークルですればいい。そもそもフェミニズムとかジェンダー論とかいうのは、権威的なものとは無縁だったはずだから。
しかし、「またかよ」感の再生産だけはしたくない。それが、今回の私の反省。