スポーツのできる男子

スポーツカースト

先日電話で知人の20代後半の男性と、例のエビちゃん系や文化系について話しているうち男子の話になり、
「むしろ男子の方がモテるモテないの階層格差がはっきりしていてキツいですよ」
と言われた。
彼によると、常にモテの上位にいるのは、スポーツ万能なさわやか体育会系男子である。サッカーなんか得意だったらもう文句なし。
それに比べて、スポーツが今いちな男子は文化方面に走るが、女子にはあまりキャーキャー言われない。そういう上下の格差が厳然としてある中で、一番下層にいるのはもちろん運動も文化方面も苦手な男子。
文化方面と言っても「ガリ勉君」「ロック少年」「文学少年」「オタク」などいろいろあるが、部活で毎日グラウンド走り回っている男子に比べると地味である。文化祭でステージに立つロック少年だって、瞬間最大風速的にモテはしてもサッカー少年に比べると出番が少ない。やはりサッカー少年は、クラスの中で幅を効かせている。そして女子にモテている。


「まあでもそれは、学校の中の話でしょ」とその時は思ったが、よく考えると学校時代は小、中、高と6歳から18歳までのかなりの長期間である。
その12年間にじわじわと表面化し定着する、運動得意・体育会系と運動不得意・文化系のモテ格差。運動>文化。思春期までに、スポーツの出来不出来によってモテるかモテないかが決まってくれば、それはかなり精神的な影響を及ぼすだろう。
小から高まで、スポーツマンのさわやか君にあまり興味のなかった私からすると理不尽なスポーツカースト制にも思えるが、確かに運動能力というのは「カッコいいかカッコ悪いか」の基準にはなっていた。
どんな運動もしなやかにこなせる男子。敏捷で強靭でハツラツとした身体の動き。ビジュアル的には魅力的だ。特に十代のうちは、そういうわかりやすくプリミティブな魅力を持った者が人気を集めやすい。
勉強できたり物知りな男子は一応尊敬、しかしスポーツで活躍できる男子は憧れの的。


スポーツというのは露骨である。
勉強のできるできないというのは、テストの学年順位が貼り出される場合を除いては、普段授業中の手の挙げ方とか当てられて答えられるかどうかとか、追試受けなくて済んでいるかなどで大体わかるが、他人にそう細かいところまでは逐一判然とはしない。しかし体育の授業では、クラス全員の前で運動しなければならない。リアルタイムで全員に一挙手一投足が晒される。
女子と体育の時間が分かれるようになっても、グラウンドや体育館の反対側で男子の運動ぶりを垣間みることはできる。そこで「A君てちょっとカッコいいと思ったけど、案外ドン臭いんだ。ガッカリ」などと思われてしまう。
誰にだって得手不得手があるのだから、サッカーが下手なくらいどうってことはないのだが、それで何か"全体的な判断"を下されてしまうのはキツいであろう。


水泳の授業ではよく男女半々にプールを使ったりする。水泳という個人競技ほど「カッコいいカッコ悪い」が現れるスポーツもない。バスケやサッカーならボールが全然回って来なくても走り回っていれば多少の誤摩化しは効くが、水泳はそういうわけにいかない。
スイスイと見事な抜き手を切っている男子のはるか後方を、バチャバチャと盛大に水しぶきを立てて足掻いている男子。一向に前に進まない。見るからに気の毒である。だがカッコ悪い。
水泳の苦手な女子が「ブハッ、もう、ダメェ」とか喘ぎながらプールの横ヘリにしがみついても、しょうがないなあという感じだが、男子が立ち往生しているとなんか見てられないものがある。ちょっといいなと思っていた男子が思いがけなくそんな有様だったりすると、「見なきゃよかった」、さらには「情けない」と思われたりする。
スポーツできるのがナンボのもんじゃと思っていた私でも、そういう場面に立ち会うとこのような意地悪眼になる。


なぜなのか。女子がスポーツでジタバタしたりコケたりしても「しょうがない」と思われ、それが可愛い女子なら「そういうところがまた、いたいけでイイ」とでもなりかねないところを、なんで男子は一律に「ドン臭い」「カッコ悪い」「情けない」と思われてしまうのか。
なんでそんなことで、スポーツバカのさわやか野郎に負けねばならないのか。

男の美点

スポーツが上手いということは、身体能力が高いということである。
普通の人よりはるかに身体能力の高さが求められるスポーツ選手の源流を遡っていくと、古代ギリシャの兵士になる。体を鍛えた兵士達に、重い岩を担がせたり槍を投げさせたり走らせたり高飛びさせたりして競わせたのがオリンピックの起源。優勝者は富と名誉(と、たぶん美女)を手にした。
ガタイがモノを言った時代に「強い男」が求められたのは当然だろうが、今はどっちかというと知力勝負の時代である。
だが運動=体育の地位は揺るぎなく、オリンピックもどんどん規模が拡大し、プロスポーツ選手のトップレベルなら年収何億も稼ぎ豪邸に住み、嫁は軒並み美人のしっかり者。
結婚式で新郎を紹介する際に使われるホメ言葉の一番典型的なのも、「スポーツマン」だ。「一流大学を優秀な成績で御卒業」だけでは物足りない。「スポーツマン」という箔をつけて完成。


スポーツで目立っていた男が目立たなくなれば、当然モテない。身近なところで、さわやかスポーツ少年の成れの果てである私の夫の例を挙げる。
小、中と野球部のエースで女子にモテモテでワーキャー言われていたという彼は、高校の途中で受験勉強にシフトしてから徐々に人気も下り坂となり、大学でスキューバダイビングなどにいそしむも、地味に海水魚の研究などしていて女性と出会う機会を逃し、私と出会った28歳の時はどこから見ても立派な非モテだった。
体育会系であろうと何であろうと、特技をずっと磨き続けてそれで輝く場を確保し続けるか、どこかで新たなモテ要素を獲得しない限り、"下り坂"になるのは当然である。
スポーツマンでなくても、スポーツマンシップを持ち続ければいいとかいう問題とは違う。スポーツマンがモテるのは、鍛えられた躍動する肉体のプリミティブな魅力と同時に、スポーツをやっている男特有のイメージから来ているからだ。


スポーツマンは勉強家や文学青年より明るい。
スポーツマンはロック少年やオタクより健康的だ。
スポーツマンは細かいことにいつまでもこだわらず、さっぱりしている。
スポーツマンは決断力に優れている。
スポーツマンは忍耐強い。
スポーツマンは集中力がある。
スポーツマンは歯が白い。
スポーツマンは仕事もできる。
スポーツマンは男の友情に篤い。
スポーツマンは寡黙だ。
スポーツマンは規律を守る。
スポーツマンは女に礼儀正しい。
スポーツマン嘘つかない。


再度確認しておくが、「イメージ」である。「さっぱり」「決断」「忍耐」「集中」「寡黙」などは、女の美点よりは圧倒的に男の美点とされてきたもの。スポーツマンから連想されるベタなイメージは、すべて古典的な男の理想像をなぞっている。そういうのが「男らしい」と言われた歴史がある。
さらに女からすると、身体能力が高いから逞しくサバイバルしていけそうだという安心感もある。「けっ、アホくさ」と思う女はたぶん少数派だったのだ。


私をスキーに連れてって』という映画がヒットしていたバブルの頃、男子の就活では、学生時代に運動部に所属していたことが大きなアドバンテージであった。
それも卓球とかよりラグビー、サッカー、アメフト、野球といった男臭いスポーツが、より好感度が高い。それで県大会で優勝してたりしたらもっと好感度高し。
「スポーツやってた奴は使える」。男だけのマッチョな運動部で生きてきた男が、男中心の職場で良好な関係を作り易いということが実際にあったのかもしれない。会社は男の運動部。そういう見方は、最近まで根強かったのではないだろうか。
やっと学校を出たら、会社までスポーツカースト制に毒されているという、文化系の男のルサンチマンを掻き立てる構造である。

「敗者」のルサンチマン

文化系でもスポーツ好きは結構いる。逆もしかり。スポーツマンとスポーツウーマンの似た者同士「さわやかカップル」なども、たまに見る。それはそれでほほえましく、見た目も様になってたりする。
しかし、スポーツマンもインドア派の女とつきあう場合は多いだろう。インドア派をアウトドアに引っ張り出し、「やっぱりスポーツできる人って素敵」みたいに思われるのは、いい気分だと思う。


非スポーツマンなら、スポーツウーマンよりは趣味や行動形態が合うということで、似た者同士に行く。
そういう男の中にも、「解説者」としては一家言ある人はいる。缶ビール片手にサッカー中継を見ながらあれこれツッコミ入れたりウンチクを並べたり。文化方面に自信があれば、女が「中田、カッコいい〜」と言っていても余裕で対応できる。
だが、小、中、高とスポーツカースト制の中以下にいた純粋文化系の男にとって、頻繁に「テニスしよ」とか「プールに行きたい」とか「スキー連れてって」と言う女は持て余す。そんな不得意分野ばかり要求されてもな。
「スポーツばっかりしている人ってなんかバカみたいだよねー。わざわざ汗かいて何が楽しいのよ」
と一方的な悪口を言ってくれた方が、精神が安定する。


スポーツも一種の知力勝負であることは事実だ。だが実際は、ほとんど知力(だけ)勝負の分野がこの世界を動かしている。戦争も体力より知力(というか政治力と経済力と軍事力)が勝敗の鍵。そして、高度に知的で平和な社会の実現のためには、鍛え上げられた身体より鍛え上げられた頭脳の方がずっと役に立つ。
この考え方は、スポーツカースト制の中でモテ上位を体育会系に譲り渡してきた男子に希望を与えるだろう。
しかし、現実はねじくれているものだ。
「スポーツばっかりしている人ってなんかバカみたいだよねー。スポーツマンがなんぼのもんじゃ。面白い男(知的な男、繊細な男、会話のできる男etc)の方がいい」
と言っている隣にいる女。彼女でさえ、アウトドアでパッとしない青白い男や、海に放り出されたらすぐ沈むような男や、2、3ブロック走るとゼエゼエする男には、冷たい視線を送るではないか。室内で良くても太陽の下で魅力がないとちょっと、とか言って。なんでそんなところで「太陽」を持ち出す? ドラキュラ扱いか。


アウトドアで男をリードし、海に放り出されたら全力で救出し、走れない男に肩を貸してやろうという「逆転の発想」は、女にはない。男に求められる発想が、女にはない。すべての女がとは言わないが基本的に。
体力がないし体も男より小さいんだからそんなの無理? いや私はジムで、体重45キロくらいの小柄な女性が60キロのバーを軽々と挙げているのを目撃した。
今できるかどうかではない。発想があるかどうかだ。なんでないのだ(自問)。
「逆転の発想」などなくても済む、ない方がお互いうまくいく長い歴史があったからなのか。
いや、そんなことを持ち出すまでもないかもしれない。いくら「男前な女」や「スポーツウーマン」がカッコいいと言っても、男より強く逞しく決断力と忍耐力と集中力に優れた寡黙な女は、あまり一般の男受けしない。そんな女は、男に"守って"もらえない。だから「逆転の発想」の生まれる余地がなかなか生まれない。


そして、普通の男の身体能力なんかほどほどでいいはずだと知っているにも関わらず、女は、男のちょっとした無様な格好やちょっとしたドン臭い動きに引く。
「メガネ男子」に母性本能がくすぐられるたって、そのメガネ君がメガネを鼻までずらしてマラソンの最後部でドタドタゼエゼエ走っているのを見たら引く。彼らが「敗者」に見えるから、「負け犬」に見えるからである。
いったい何に対しての「負け犬」なのか、そこで負けたからどうだっていうのか。そういうことまでは考えず、女はガッカリする(してきた)。


だから思春期を支配したスポーツカースト制の中以下で抑圧された覚えのある男は、黙々と「創ること」や「書くこと」に向かうのだろう。
「創ること」や「書くこと」はたぶん、そういうルサンチマンをバネとして生まれるのだ。