日本の純愛史 14 『高校教師』のご破算願望 -90年代(1)

「純愛三部作」の後、純愛ドラマはシリアス路線を強めていく。立ちふさがる邪魔者。越えられない壁。追いつめられ苦しむ主人公。
となれば、『101回目のプロポーズ』が既にそのパターンだったが、コミカルなやりとりで笑いをとったりはしない。タッチはあくまで深刻ムード。
以下に、そうした純愛カテゴリに入ると思われる、当時話題になった一時間枠の連続ドラマを並べた。
放映当時、これらがすべて「純愛ドラマ」と銘打たれていたわけではないが、各種メディアでの紹介に際しては「究極の愛」「純粋な愛」という言葉が盛んに使われ、コメディタッチの恋愛ドラマや、恋愛と友情二本立ての青春ドラマ、家族や社会問題などを絡めて描いたヒューマンドラマとの差別化が意図されていた。


93年 高校教師(高校教師と女子生徒/二人の心中を暗示)
94年 この世の果て(元ピアニストの男とホステスの女/女が重度障碍者となる)
95年 星の金貨(聴覚障碍者の女と記憶喪失になった男/二人は結ばれない)
    愛していると言ってくれ(聴覚障碍者の画家と劇団員の女/二人は結ばれない)
96年 オンリー・ユー 愛されて(知的障碍者の男とモデルの女/二人は結ばれる)
    真昼の月(レイプ被害者の女とそれを支える男/女が立ち直る)
97年 失楽園(編集者と書道講師のW不倫/心中)
    青い鳥(独身の男と人妻の不倫/女が死に、男は服役後、女の娘と再会)
99年 神様、もう少しだけ(作曲家と元援交女子高校生/女がHIVで死ぬ)
    魔女の条件(高校教師と男子生徒/二人が結ばれることを暗示)


タイトルの並びが与える印象だけでも、バブルが崩壊し、地下鉄サリン事件阪神淡路大震災に見舞われた90年代の、閉塞的な"世紀末気分"が漂っている。80年代末トレンディドラマの浮かれたタイトルとは、隔世の感。「純愛三部作」(『東京ラブストーリー』、『素敵な片思い』、『101回目のプロポーズ』)ですら牧歌的に思えてくる暗さである。
そして悲惨な結末が多い。「道ならぬ恋」も多い。夜九時や十時代にお茶の間に堂々と流すのはどうかと思われるような、ヤバい内容が盛り沢山。障害の種類も実に多様。
つまり60年代末から70年代にかけて作られた悲劇の純愛映画が、バージョンアップしてテレビに登場してきたのだった。


91年のリカや達郎の場合には、相手の感情の中に障害要素があった。すべては相手の気持ち一つであり、こっちはビリでも懸命に走ればよかった。そして最終回のラストでは、恋が成就してもしなくても、主人公はトンネルを一つくぐり抜けていた。
だがそういう話は、「頑張れ」「失敗しても明日がある」という言葉が、まだリアリティを失っていなかった時代のことである。
バブル崩壊以降の90年代は、トンネルの先が見えない時代だった。世論調査で「生活が楽になる」見通しや「世の中が良くなる」見通しのパーセンテージがぐっと下降し、自殺者や引きこもりが増加した。
明るい明日が見えないのにこれ以上どう頑張れと?ビリでも一生懸命走れ?もう疲れたよ‥‥そういったプチ鬱な気分が確実に広がっていった十年だった。


こういう状況で、人はますます外界から引きこもり、プライベートに向かっていくことになる。
そんな時期に流行っていたのが、「本当の自分探し」である。恋愛で言えば本当の「運命の相手」との出会いを信じて、あの男の次はこの男と彷徨い続ける「転職型」。
その一方で、80年代から続く「副業型」も増えていった。結婚相手と恋愛相手は別、この彼氏とあの彼氏は別用途というふうに、相手を目的に応じて使い分けるリスク回避志向である。
女性誌の恋愛特集の相談コーナーなどを見ると、よくこの二つの立場からの悩み事が掲載されていた。
「なかなか運命の人に出会えない」という「転職型」の人の相談には、「一人にすべてを求めないで、いいところだけもらえばいいんです。もっと気楽にいきましょう」。
「男を一人に絞れない」という「副業型」の人の相談には、「二人からいいところだけもらおうってのは、ムシが良すぎます。もっと真剣に考えなさい」。いったいどうすりゃいいの‥‥混乱する一方である。


こうした混乱に共通しているのは、たった一人に全力投球することへの恐れである。
もしかしたらその場限りかもしれない恋愛感情に身を任せ、行くところまで行くのはハイリスクだ。
しかしハイリスクだからこそ、それは憧れに転換し、特権化される。
「転職」や「副業」ではいつまでたっても満たされない。だったらいっそのこと、危険な博打に身を投じて燃え尽きてみたい。だって他に頑張れそうなことなんか何もないんだもん。
そういう要求に応えるかのように、恋愛ドラマの多くは現実社会のダークサイドや人間の心の醜さをエグっているものが多く、主人公が気の毒なほど辛酸を舐めるという展開だった。視聴者は「二人が早く結ばれてほしい」と半分位は思いつつも、後の半分は「もっと悲惨でグロい展開になってほしい」という暗い願望を禁じ得ないのであった。


上記のドラマのうち、放映時の反響がとりわけ高かったのが、『高校教師』。続編、新編が作られるほど視聴率を上げたのが『星の金貨』。原作の小説と映画のヒットが社会現象にまでなったのが、『失楽園』である。
障害はそれぞれ、立場の違い、恋人の記憶喪失、不倫で、主人公は、次々と社会的な試練に見舞われ窮地に陥る。言い換えれば、そこまで様々な障害を設定しないと、男女の愛を描いて視聴率を取ることが困難になっていたとも言える。






『高校教師』(真田広之桜井幸子赤井英和京本政樹持田真樹、渡辺典子、峰岸徹)の番宣コピーは「卒業する前に、女になっていく」。女子高生、繭(桜井)との偶然の出会いによって、真面目で平凡な男、羽村(真田)が徐々に社会的に転落し、その中で「自分の欲望」を自覚していくというストーリーである。
テーマ曲に使われた森田童子の『ぼくたちの失敗』も話題になった。70年代の喪失感とアンニュイの象徴のような昔の歌手が召還されて、それなりにハマってしまうくらい独特の暗く繊細なムードが、新鮮に受け止められたドラマであった。


ぼくたちの失敗 (CCCD)


各回のタイトルは、「禁断の愛と知らずに」「嘆きの天使」「同性愛」「僕のために泣いてくれた」「衝撃の一夜」「別れのバレンタイン」「狂った果実」「隠された絆」「禁断の愛を越えて」「僕たちの失敗」「永遠の眠りの中で」。
悲劇的な展開の中に散りばめられるのが、男を憎むレズビアンの女生徒や、人気教師による女生徒レイプや、父と娘の近親姦関係(というか性暴力)など、それまでテレビドラマでは決して描かれることのなかったモチーフである。若い女性が家族と一緒に見るにはためらわれるような内容だ。
しかし番組HPの感想欄などを見ると、「あんなにハマったドラマは後にも先にもない」「ハマり過ぎて周囲に危ない人と見られていた」など、視聴者をいかに釘付けにしていたかがうかがわれる。


ドラマには毎回、主人公の高校教師、羽村のモノローグ(基本的に繭に語りかける言葉)が挟まれる。
「あの時の僕たちは、砂の城を築こうとしていたんだね」とか。
「あれから僕たちは、すべてを失ってしまったね」とか。
つまり『野菊の墓』に始まる古典的な純愛物語と同じ、男の回想ドラマなのである。
ノローグはナイーブというか湿っぽいというか、まるで昔の純情文学青年のような語り口。そのもってまわったクヨクヨぶりが男の生真面目さと若干の不安定さを現しており、「母性本能を刺激する」ということでウケていたようだ。
ヒロインの繭にしてからが、初めて女子校に赴任した頼りなさそうな羽村に、「あたしが守ってあげる。守ってあげるよ!」などと言っている。高二の女子が三十男に向かって。


学校で孤立気味な繭は、羽村を慕って何かと寄ってくる。羽村も顧問になったバスケ部で生徒達からの教師イジメに遭い、赴任早々落ち込んだりしているが、繭には教師らしい語りをしようと試みる。
「人間には三つの顔がある。一つは自分の知る自分。二つ目は他人が知る自分。もう一つは、本当の自分」
「ほんとの自分はどうしたらわかるの?」
「さぁ‥‥きっと、自分が何もかも失った時にわかるのかも」
既にドラマの二回目で、「何もかも失う」自分の人生を予言している。
羽村は元は事なかれ主義の常識人であり、本業は生物学の研究者で、大学教授の娘との婚約も決まっていた。たまたま今は慣れない女子校教師の立場に甘んじているが、ゆくゆくは研究室に戻り学者の道を順調に歩いていくという人生設計を立てていた。
しかし婚約者にもその父の教授にも裏切られ、繭の前で「僕は‥‥何もかも失ってしまった‥‥。ささやかな未来も‥‥」と、感極まっておいおい泣く始末。それに共鳴して一緒に泣いてやる繭のメンタリティは、ほとんど「母」である。
一旦は道徳と世間体を優先しようとする羽村だが、互いに孤立した者同士で引かれ合い、二人は結ばれる。しかし繭の父の二宮は、死んだ妻にそっくりの繭に執着しており、繭は父親との間で性関係を強要されていたという異常な展開。


番組HPに当時のTV雑誌から転載された伊藤一尋プロデューサーの談話によれば、「近親相姦」は刺激を求めてのプロットではなく、ギリシャ神話みたいなものをイメージしていると、脚本家の野島伸司は語っていたようだ。
ギリシャ悲劇の近親相姦と言えば、オイディプス王の物語である。
オイディプスは、「親を殺すだろう」という神託を受けたために、生まれてすぐ捨てられ遠い国で育ったが、旅の途中たまたま道で争った男を父と知らずに殺して王の座につき、その妻を母と知らずに娶り、すべてを知った後、自ら盲となって放浪する悲劇の主人公である。
ドラマでのそれは、直接的には二宮(父)と繭(娘)の関係を指すが、実はそれは表面的な設定と私は見る。
羽村(落ちこぼれの息子)と繭(精神的母)の許されない関係こそが、真の近親相姦である。その仲を引き裂こうとする二宮は、繭の心と体を縛りつけている「夫」。羽村にとっては強圧的に立ちはだかる「父」のような存在である。
繭を奪還しようとして羽村に刺された二宮は、死を悟って焼身自殺する。羽村は、「父」を殺し「母」と結ばれるオイディプスなのだ。
犯罪者となった彼は繭と駆け落ちを約束するものの、彼女を自分の巻き添えにできなくなり、一人郷里の新潟へと旅立つ。罪を犯したオイディプスは、旅立つ定めである。


ギリシャ悲劇では、息子オイディプスの妻になってしまった母は首を吊るが、繭は羽村の跡を追ってきて列車の中で二人は再会。
座席に並んで座って仲良く寝ているのか死んだのか、判定が微妙なラストシーンを巡っては、視聴者の間では当時"議論"が巻き起こった。
悲劇を望む場合は心中の道行きで締めくくりたいところであるが、リアルに考えれば羽村は逮捕され、繭は施設送りとなるだろう。「父」に替わって「象徴的父」たる法が二人に罰を下す。それが「自分の欲望」だけに生きた者が甘受せねばならない運命であり、彼らはたぶんそれを知っている。
だから最終回タイトルの「永遠の眠り」とは、赤い糸でお互いの指を結び合って眠りに落ちたまま、永遠に目覚めたくないという二人の(叶えられない)願望である。


101回目のプロポーズ』と『高校教師』は同じ脚本家野島伸司の手によるものだが、トーンが全く違っていた。
しかし、主人公はある意味で似ている。達郎(武田鉄矢)と羽村真田広之)が似ていると言っても誰の同意も得られないだろうが、それまでの社会的位相から転落していく男という点では同類である。
達郎を聖母のように抱きしめた薫、若いのに母性を感じさせた繭も、タイプとして同じ(病んでいたところまで)。


「僕はいま、本当の自分が何なのか、わかったような気がする。いや、僕だけじゃなく人は皆恐怖も、怒りも悲しみもない、ましてや名誉や、地位や、すべての有形無形のものへの執着もない、ただそこにたった一人からの、永遠に愛し、愛されることの息吹を感じていたい、そう‥‥ただそれだけの無邪気な子どもに過ぎなかったんだと‥‥」(羽村のモノローグ)。
いい大人が何を眠たいこと言っとんだ?とも思えるセリフであるが、これが当時それなりの共感を得られたとすれば、「社会的成功を目指して生きることに疲弊した男のご破算願望」が強く込められていたからだろう。
羽村の夢は、何もかも捨てて「無邪気」な幼年期に戻り、「母」との幸福な蜜月(身も心も一体化していた純愛時代)を取り戻したいということなのだ。
もちろんそんなことは不可能に決まっていた。(続く)