日本の純愛史 13 『101回目のプロポーズ』の欺瞞 -90年代初頭(2)

純愛者が奇跡的にも結婚に辿り着いてしまったのが、『東京ラブストーリー』の半年後に放映された『101回目のプロポーズ』(武田鉄矢浅野温子江口洋介田中律子石田ゆり子)である。

101回目のプロポーズ [DVD]

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九十九回お見合いしても結婚できない中年サラリーマン、達郎(武田)と、過去に婚約者を結婚式当日に亡くしたお見合い百回目の美人チェロ奏者、薫(浅野)との出会い。
しかも武田鉄矢の弟純平が、(当時ヘアスタイルが似ていたというだけで?)あろうことか江口洋介
この設定自体に、既に純愛ものらしからぬギャグの香りが漂っている。意表を突いた取り合わせでまず話題を作ろうという、露骨なキャスティングだ。
武田鉄矢主演の純愛物語だったら、失恋で終わるのはあまりにも普通過ぎるので、「美女と野獣」の結婚という意外なかたちに持ち込むであろうことも、最初から見え見えだった。
が、まあそういう細かいことは措いておこう。それよりも、いったい武田鉄矢なんかが、いや大した地位も金もないサエない中年男が、突然歌手デビューして大ヒットを飛ばしたとかの『愛染かつら』みたいな反則技なしに、どのようにして高嶺の美女の心をゲットするのか? 
要点はそこである。そこだけが、このドラマの推進力となっている。


薫に一目惚れした達郎は純平達に助けられつつ、果敢に不器用なアタックを繰り返すが、あと一歩のところで元の木阿弥に帰して傷つくというパターンが、面白可笑しく描かれる。
達郎の「純愛ぶり」は、すさまじい。
昔、婚約者を結婚式当日に亡くした薫に、
「僕は違う。五十年後の君を今と変わらず愛してる」
と真顔で言う。まだ相手のことよく知らない時点で。薫、不快感丸出し。
達郎の一途さが鬱陶しい薫は、そんなに私と結婚したいなら、競馬の一点買いにボーナス全部突っ込んで一発当ててと、冗談半分の要求を突きつけて諦めさせようとする。が、達郎は真に受けて決死の覚悟でボーナスを馬券に替え、見事全部スッてしまう。バカである。
人を好きになってまた失うのが怖いと薫が言えば、走って来る大型トラックの前にいきなり飛び出してトラックを急停車させ、
「僕は死にません!あなたが好きだから!あなたを幸せにします!」
と叫ぶ。何もそこまで派手なパフォーマンスしなくてもいいわけだが、「一身を犠牲にすることをいとわない」ところを見せて愛と誠意を訴えたい達郎は、何でもやってしまうのだ。


一方薫は、毎回のように昔の婚約者を思い出しグズグズ涙ぐむという、それまでの浅野"トレンディ"温子の役柄からは考えられないような、後ろ向きの女である。
達郎の捨て身の言動についホロリとなってようやく結婚を承諾するものの、その直後に死んだ婚約者にソックリな男が現れ、彼女は簡単に恋に落ちてしまう。
しかもその男は、達郎の上司として赴任してきた人で、いたたまれない達郎は会社をやめ、土方しながら今度は司法試験を目指す。試験に合格して、薫をもう一度振り向かせたい一心。雨の中、ずぶ濡れになって合格祈願のお百度参りまでし、兄に同情している弟が学資貯金を下ろしてくれた百万円で、早々と結婚指輪も買う。
ここまで極端な行動が描かれると、健気というより単細胞というか、単に諦めが悪い男に見えてくる。そして案の定司法試験は落ち、百万円の指輪も無駄になり、精魂尽き果てた達郎はようやくすべてを諦めようとする。
しかし最終回では、ソックリ男の二面性に気づいて恋から醒めた薫が、お約束のウェディングドレス姿で達郎の元に駆けつけるのだ。しかも道端に落ちている鉄のナットを自分の指に嵌めて、土方姿の達郎を抱きしめるという、笑わせたいのか感動させたいのかわからないラスト。


そこでドラマが終わっているからいいのだが、その後大丈夫かということはかなり気になる。
おしゃれな薫と、マティーニをいつまでたっても「マタニティ」と言う達郎。
ガンガンにエアコンかけてソーメンを食べる薫と、エアコンなしで汗掻きながらトンカツ喰ってしまう達郎。
そして、住宅ローンの返済に追われているのに、純愛道をつっぱしるあまり会社もやめてしまった達郎。
結婚という日常生活において浮上する経済問題と、教養、習慣、嗜好の多大な隔たりを、これからいったいどう解決していくのか。
それも、この「男のファンタジー」においては、余計な心配のようだ。そんなことは考えなくてもいい。容姿も収入も社会的地位もモテ趣味も必要ない。誠実でひたむきな愛さえあればいいというのが、ドラマの答だ。それこそ純愛なのだ。
‥‥わかった、それはひとまず了解しよう。





しかし、例の恋の相手から薫の気持ちが離れなかったら、このようなおめでたい結末にはならないはずである。自分は婚約者の幻に囚われていただけだったと彼女が気づいたから、達郎の存在が再び浮上してきたのである。
つまり、一回目に結婚を承諾していた時の薫は、達郎への純粋な愛で動いたのではなく、彼のなりふり構わぬ献身と熱意にほだされ、思わず同情していただけではないか?という疑問が生じる。でなければ、その直後に他の男に気持ちが傾くはずがないではないか。
だから最後の薫の、自分から達郎のもとに駆けつけるという目を見張るような積極的な行動が、いったいどこから出てきたのかが問題となる。それを、「仕事を失ったサエない中年男との結婚」という大博打に出た女の勇気と決断、とだけ見るわけにはいかない。 


土方姿の武田鉄矢、ウェディングドレスの浅野温子、ナットの指輪。これはそれぞれ、モテない男、夢の女、純愛を示している。
ナットの指輪を純愛に見立てている制作者側の意図は、八十年代バブル恋愛へのアンチであり明快だ。道に転がっていた達郎のその純愛を薫は拾い上げて、自分の指に嵌めた(受け入れた)。
もちろん純愛には、純愛で応えねばならない。それは同情ではなく、愛情と性欲だけからなる強い感情であり、「一身を犠牲にすることをいとわない」行動となって現れねばならない。薫が達郎に示すべきなのは、それだけだ(達郎はそれを不器用ながらしつこく示してきたのだから)。
しかし、薫からはそれが感じられない。相手が武田鉄矢だから?ということではなくて、薫が本質的に受け身の女だからである。


薫の愛は、「私を幸せにしてください」(一回目に承諾した時の台詞)と相手に依頼するものであり、「愛してくれる人に精一杯応えていく」(間違った恋から醒めた時の台詞)ものである。
「五十年後の君を今と変わらず愛する」「僕は死にません!あなたが好きだから!あなたを幸せにします!」と達郎が言った言葉に、彼女は結局すがりついているのである。それは、最低五十年間保障つきの(婚約者は死んでしまって保障してくれなかった)、決して裏切られない"安心愛"だ。
もっとも薫は一回目の承諾前に、「結婚ってそういうもんでしょ」と割り切ってはいた。
達郎が求めていたのはひたすら薫自身であったが、薫が求めていたのは、自分をいつまでも愛してくれる男との安定した関係であった。


従ってこのドラマで描かれていることは、二つある。
一つは、走ってくるトラックの前に飛び出るほど「一身を犠牲にすることをいとわない」純愛。
もう一つはその純愛が、モテない男と受け身の女の結婚願望に都合良く一致したということである。





久々に復活した九十年代初頭の純愛ドラマは、積極的に行動し走り抜く純愛者の姿をストレートに描いていた。しかし、ハッピーエンドを迎えたのは男の達郎(101回目のプロポーズ)であり、女のリカ(東京ラブストーリー)ではなかった。
つまり、八十年代後半に仕事で自立し男に伍してやってきたモノをはっきり言う女は、愚直に純愛を貫いても敗北するということである。
男が選ぶのはそういうニュータイプではなく、昔ながらの受け身姿勢を自然に身につけていて男に頼れる女。「東ラブ」の完治がごく普通のわりと真面目な男として描かれたからこそ、その(視聴者にとって受け入れがたい)事実はリアリティを持って迫ってきたのである。


一方、八十年代のバブルおやじ達の陰で地味に生きてきた男は、日の目を見た。ブサイク、中年、貧乏という三重苦を見事にはねのけ、どんでん返しに持ち込むことができた。
これはまさしく、不屈の闘志で頑張れば必ず目標達成できる、最後まで諦めるなという、昔ながらのある意味非常に古典的な「男の物語」である。だから結婚という目に見えるかたちで、話の決着をつけなければならなかったのだ。


「昔ながら」の女にそうでない女が負けた純愛ドラマと、「昔ながら」の男の物語が結婚に結びついた純愛ドラマ。
純愛における男女の真実にいち早く直面させられたヒロインは、二〇〇〇年の『やまとなでしこ』でそれを完璧に逆手にとってみせる。
小倉千加子は、この「ジェンダーを仮装した」ヒロイン神野桜子が、「(ジェンダー規範に抵抗した)リカか(ジェンダーを内面化した)さとみか」の答えであると看破した(「『東京ラブストーリー』と『やまとなでしこ』に見る結婚と愛の劇的変化」/AERA Mook「ジェンダーがわかる。」収録)。
やまとなでしこ』は「愛は年収」というキャッチコピーで、「東ラブ」=純愛を葬り去った。視聴者が喝采したのはヒロインの浅ましいまでの"本音"であった。


男の方はその後も相変わらず、『101回目のプロポーズ』と五十歩百歩なことを『電車男』でやっていた。だが注目すべきは、前者が笑いと共に好意的に受け止められたのに対し、後者は巷の大ヒットの一方で、非モテ男性から批判が相次いだことである。
九十年代の間に、恋愛を巡る何が変わったのだろうか。次回から、その十年間に話題となったテレビドラマをいくつか見ていく。(続く)