理系女子語りの意味するものは「ちょっと厄介な私の取説」

理系/文系女子について語るのが流行っているのか…(23mmの銃口から飛び出す弾丸は)


いい記事だと思った(ここでリンクされている文系・理系話しに加われない。。。(奥様、鼻毛が出ておりますことよ)にも、同じ美術系出身として大変に共感)。

ただ、これまで出た理系女子エントリを読む限り、(理系女子を)「普通でない」という見方をしているのは、「理系女子」自身ではなくむしろその外部で、それに対する違和感が書かれていたように思う。「普通は〜」と言われるのが鬱陶しいとかね。
でも文章を読むと、「私ってやっぱり普通の女子とは違う」と言っているようにも読めるのだけどね。そういう「ちょっと厄介な私の取説」=自己紹介というふうにも読めたりするところが面白い。


理系女子は工学部などだと男子が圧倒的に多いせいで、余計に「女子」を意識せざるをえなくなり、それで小数派たる「理系女子」という括りで語ってみたくなるということではないかとも思うが、ブクマなどを見ると、文系女子(と言っている人)にも共感者が多かった。これは何を意味するのか。やはり理系女子語りは、ある種の女子の自意識を代弁をしているところがあるとか?


昨年だったか、「文化系女子」を巡って、議論があった(参照:(文化系)女子の憂鬱)。
主に『ダ・ヴィンチ』の記事(男目線からの文化系女子イメージ)に依拠した、自称非モテ男性の側からのいくつかの「文化系女子が好き」ネット発言に対して、そこに男から女への手前勝手な視線を読み取り、「ほっといてほしい」「文化系の女子を一括りにするな」「文化なんかどうでもいいくせに都合のいいイメージで女を語るな」などの反発が主に女性(たぶん文化系かそれに近い方々)のブログに散見された。


ところが、今回は理系女子自ら(あえてレッテル貼りに近いことを)語っている。理系と文化系は対応しない(するのは文系)が、これはどういう現象か。


理系女子は、「理系女子が好き」の男目線を、無意識のうちに先取りしているのか。
そんなこと言ったら毒薬を飲まされそうなのでこれは却下。

では、「ギークなお姉さん」に対抗しているのか。
いや、ほぼ眼中にないというスタンス(対抗させたがっている空気がどこかにあったとしても)。


というわけで、やはりカテゴリ前提の「ちょっと厄介な私の取説」というあたりで読むのが、たぶん一番妥当という結論に達した。
理系女子も文系女子文化系女子も芸術系女子もギークなお姉さんもその他の女子も、それぞれ女子の生きにくさ、厄介さというのを、どこかで抱えている。それを少しはわかってほしい(わかろうともせずにごちゃごちゃ言わないで)。そういうことだ、きっと。
そう言えば、杉浦由美子『オタク女子研究 腐女子思想大系』(いろいろ批判はあったが腐女子のほぼ初めての紹介)と似た匂いを感じたのだった。