生業と言論、生活と思想の一致問題の困難

小谷野敦氏が荻上チキ氏の実名をブログで仄めかして問題になっている件について。
荻上チキの正体(猫を償うに猫をもってせよ)
小谷野敦さんに実名を晒された件/および匿名と顕名の擁護荻上式BLOG )


小谷野氏と荻上氏はフェミニズムジェンダー論を巡っては真っ向から対立する立場だから、小谷野氏の中には、匿名や非・実名での言論への批判とは別に、「論敵」であるフェミニストmacska氏と懇意な荻上氏を攻撃したいという気持ちもあったような感触を受ける。それを措いても、今回のことは道義的な問題として、散々非難の的となっている。いろいろ見て回ったが、私の意見は実名と顕名の境(あるいは言論人と言論者の境)(地を這う難破船)に近い。

人間は、多く、言論人である前に生活ある個人である。個人として発言することが「言論人」である、と考え得るのは、言論と生活が一致しているがゆえのこと。それをして顕名を「卑怯」とするのは、個人における言論と生活が一致しない社会の存在を、あまりにも見ていないか無視している。小谷野先生の「覚悟」には感服しているけれども。
実名と顕名の境(あるいは言論人と言論者の境)


荻上氏の場合のように、実名だと仕事上で不都合が起こるケースは結構あると思われる。政治的思想的な発言が、仕事の立場上問題になることは普通にあるだろうし、その仕事で実質的に生活を支えていれば、つまり生業であれば、まずそれを守らねばならないのは当然。


ただ一方で、小谷野氏が荻上氏を自分に近い「言論人」と看做すのは、仕方のないことだと思う。
荻上チキ氏は、現在のブログの前身の人文系サイト「成城トランスカレッジ!」の運営者としても、『バックラッシュ-なぜジェンダーフリーは叩かれたのか』の監修に関わった人としても、フェミニズムジェンダー論方面ではそれなりに名前を知られており、『ウェブ炎上 -ネット群集の暴走と可能性』という新書の著書を10月に出したことで、インタビュー記事に顔写真も出ている。
つまり荻上氏は、言論活動にアイデンティティを置いているだけでなく、それら政治的思想的な自己の言説を具体的に社会化することを目指し、ライフワークとして取り組んでリアルでも活動している人と目されている。ネットで言論活動をしているブロガー「言論者」の一人‥‥とは言いにくい。
一方、小谷野氏は現在東大の非常勤講師を生業としているが、恋愛とそれにまつわる近代文学に関する著作の多いことで有名だ。氏が非常勤講師としてどういう授業をもっているのか具体的には知らないが、文学関連であることは間違いないだろう(追記:間違いです。英語の講師です。コメント欄で御本人から指摘あり)。小谷野氏の生業(講師業)とライフワークは、すべてではないがかなり重なっており、互いに互いを支え合っていると言ってもいいのではないかと思う(追記:従ってこれも間違いです。氏はライフワーク(文筆業)の方で主な生計をたてていることになります)。
しかし荻上氏はそうではない。生業とライフワークにはおそらく断絶がある。だから実名を明かすことができない。


言論が政治的な色彩を帯び、制度的体制的なものへの批判を強めれば強めるほど、一般の会社組織や共同体はそうした「偏向」を排除しようとする。しかし言論とは本質的にそういうものだと思う。実名で書かれていようと顕名であろうと、同じである。
顕名も実名も同じ「署名」というところで考えれば、大差はない。それよりも問題は、署名されたものの中身だ。逆に言えば、何の政治色もない無色透明で中立的な言説は、実名であっても顕名であっても、言論の名に値しない(と自戒を込めて思う)。
だから、普通に一般企業に就職していて実名で言論活動をしようとしたら、干されるの覚悟で発話しなければならないことも当然あり得る。
現に小谷野氏は同じ研究領域の大学人、研究者への名指しの批判を躊躇しない人としても有名であり、そうした「反骨精神」によって、あれだけの著作・研究がありながら、長らく非常勤の身に甘んじているのではないか。ネットで発しているような言論が論壇では目立っても、大学という制度、アカデミズムの体制にはそのまま受容されないことを身をもって知っているのは、小谷野氏自身ではないだろうか。


小谷野氏は自身の「言論人」としての信条を生きることで、「個人における言論と生活」が理想的なかたちでは一致せず、制度的には冷や飯を食っている人に私には見える。氏の思想的スタンスに全面的には組みしないが、その計算のできなさというか世渡りの下手さには、共感するところがないでもない。「言論人」なら言論の責任を実名にて引き受けよという主張にも、原則的には同意する。
だがそれはつまるところ、生業と言説を、生活と思想を一致、一貫させよということに繋がる。一致、一貫できる人(例えば著述業だけで食べていける人)は問題ないが、それをこの社会で、決して主流派ではない政治的主張をもつ「非職業言論人」に求めるのは、自分以下の冷や飯を食えと言っているに等しい。
そんな大変なことを大学院を出て就職して間もない若い人にぶつけるくらいなら、大学という場に身分を保証されて研究費をばんばん使って毒にも薬にもならないような論文を書いている同業人をコキおろしてくれてた方がいいなあ、私怨でも‥‥と思う。


そこまで思ったところで、別のことも考えた。
実名論議を一旦横に置いて考えると、小谷野氏の主張は、「言論人」としての自覚をもつならば、「生活人」であるより「言論人」であることをまず優先させろといったことになる。
これは、正規雇用の職にありつけなくても言論活動をしていく気はあるか? それだけの価値を自分の言論内容に見出しているのか? という問いになるのだろうか。小谷野氏はそこまで問うてはいないが、つきつめていったらそういうことにならないだろうか。
私はこの問題を、美術作家活動をしていた時、自分に問わずにはいられなかった。正規雇用はとっくに諦め、「言論人」とはとても言えないが今は書くことしか能のない私にとって、これはますます重い問題となりつつある。