僕の試み

僕はアートの分野で活動し始めて数年になる。
アーティストというと、「自己表現」という言葉を思い浮かべる人がいるかもしれないが、僕は「自分」にはあまり興味がない。興味のあるのは、人と人との関係だ。
たとえば僕の作品の体験は、それに接した人の日常生活に持ち帰られ、検討されてほしい。同時にそこで何かを刻みこみ、刻み込まれたものはいつかまた僕に返ってくるような働きをもつものであってほしい。
作品の形式がどんなであれ、そういうことを願っている。


しかしそうは言っても、展覧会場での体験をナマのまま維持し続けることは難しい。
それは記憶の中で、やがてイメージに置き換えられてしまうだろう。会場で説明を聞いて、わかった気にもなるだろう。体験してないのに記録や批評で知った気になることもある。何かを刻み込むことなく、双方向の働きもなく、それは単にアート作品として登録され消費される。
そうした中に自分の作品が置かれていることに、僕は違和感を感じている。これを回避するには、どうしたらいいのだろうか。


来場した観客に、作品を家まで持ち帰ってもらうのはどうか、と思いついた。売るのではない。自由に持ち帰ってもらう。持ち帰らないと、作品体験できないことにする。
それには、誰でも作品を気軽に持ち帰ることができるようなサイズと重量、数量にしておかねばならない。
そして展覧会場ではそれを直接見ることができないように、あらかじめ梱包しておく。


つまり展覧会場は、作品がお持ち帰り用に梱包されて置いてあるだけの場ということになる。
ただし、持ち帰りたくないという人にまで強制はできない。「鑑賞」して帰るだけでもよい。その「鑑賞」に意味が見出せればの話だが。
作品が持ち帰りたい人に持ち帰られて、すべて無くなった時に、展覧会も終了する。


さて、わざわざ持ち帰ってくれた観客は、家で包みを開けるだろう。そしてどう思うのか。何を感じるのか。そこで何かが刻まれるのかどうか。それこそが、僕が制作の代価として受け取るべきものだ。
ただその内容を僕は、どうやって知ればいいのだろう。持ち帰った観客をあらかじめチェックし、あとで感想を尋ねて回ればいいのか。
その状態で、正直なリアクションを返せと要求するのは難しい。いきなり作者から「感想は?」と訊かれても、返答しづらいだろう。


観客が自由にリアクションを返せるような形を、持ち帰るものに組み込むことが必要だ。
僕を直接知っていようがいまいが、誰でも等しく返せる形。名乗ることを強制しない形。もちろん返したくない人は返さなくてもよい。そうすれば、どういう反応が返るか、全体でどのくらい返るか、あとで知ることができるだろう。
その結果を、僕一人が独占していいのだろうか。作品体験を提供したという理由だけで。
これは不平等だ。結果は、何らかの形で公表されるべきだろう。
そこで観客は何を知るのか、知ったと思うことができるのか。それはわからない。しかし、ここでとりあえずその試みは終了する。


これはアート作品なのだろうか。まあそういうものとしか言えないだろう、今までの作品とはいくら違って見えても。
と言うと、そもそもアートって何?という質問が飛んでくる。
こういう質問には、宇宙人の目でアートを記述してみるのがいい。


まずある場所に作品というものが存在している。そして、それを見る人間がいる。買うこともある。美術館で展示、保存されることもある。それは展覧会と呼ばれる。その展覧会は必ず、誰々の展覧会と書かれる。誰々とは、作品を作った人間のこと。そういうものをあれこれ分析する言葉は批評で、それと作品の記録とが集積して美術史というものができる。
これらの条件があれば、それはアートと呼ばれる。
簡単に言うと、観賞、売買、批評、収集、記録されるものがアートだ。内容を問わず。


と思ってこれを読み返してみたら、もうほとんどアートでなくなっていた。驚いた。
包んであるから会場で観賞できないし、売らないでただであげちゃうし、持ち帰った一部から全体像を把握して批評はできないし、誰がどこに持ち帰っているか追跡できないから収集は不可能だし、プロセスは途中で僕の手を離れているから、写真でもビデオでも文章でもすべてを記録しようがないし。
更に、ギャラリーも使わず、展覧会とも言わなかったら、ますますそれはアートではない。


ではいったい何だ。
作ったものをいろんな人にあげる、そして反応を返してもらう、その全体像を後で皆が知ることができるようにする‥‥。
中身が見えないように包んだり、最後に種明かしをするようなプロセスは、所詮ゲーム的なものだ。
僕はゲームをしたかったのか。いや違う。


自分の提示したものが「それに接した人の日常生活に持ち帰られ、検討され、同時にそこで何かを刻みこみ、刻み込まれたものはいつかまた僕に返ってくる」ことを、僕は願っていた。
相手に何かを投げかけ相手から何かを返され、生じた変化や亀裂を共有しようとしていくこと。単純に言えばそれだけだ。


そこで、アート作品という物が媒体となる必要は別にない。
そういうことをただ日常の中で「行って」いけばいいのだ。
そしてもちろんこれはアーティストしかできないことではなく、誰でもやろうと思えばできることだ。


悩みは解決した。
僕はもうアーティストではない。この試みにアートという名前はいらない。
それで何の不都合があるだろうか? ない。



これは5年前、ある若いアーティストに贈るために書いた短い文章である(ここにアップするに際して若干手を加えている)。
彼は試行錯誤を繰り返しており、アーティスト然としていた私が突然「廃業」したのを不思議そうな目で見ていた。そしてこれを読んで、こっちはよく理解できなかったが、これはなんか納得できると言った。


似たようなことを考えてアーティストをやめていった人々を、私は知っていた。アーティストであることを貫徹しようとして、その延長線上でアートの外に出てしまった人々。
彼等についてその時は「なんと素朴な」と思ったが、ずっと後で、こうした回路が美術の中にかつてはあったことを思い出した。美術とは、宿命的に自らの限界を超えていこうとするものだった。超えた先で「外」に着地することは十分にありうる。


私はそのことを、この文章を通じてその若いアーティストに伝えたかった。でもどこまで伝わったかはわからない。彼はその次に、文字通りの「観客参加型のアート作品」を発表していた。
今でも彼がアーティスト活動をしているのかどうかは知らない。