id:umetenさんへの再お返事

※5/11、追記あります。


「価値中立性」への不信と「信念」のありか - こころ世代のテンノーゲーム(エントリ後半部)


長々しい返信エントリにきちんと返して下さって、恐縮です。論点が整理されていたので、自分の書き残していることが大分はっきりしてきて感謝しております。
umetenさんの困惑も前より少しは理解できたように思います。しかし自己韜晦まで含めて誠実な人ですね。あとね、「だからモテないんだな」とか言わないで下さい。川瀬さんへの書評とかしびれました。元の論文読んでないけど。川瀬さんはumetenさんの先生なのですか(だって君呼ばわりしてたから)。umetenさんは褒めなくていいです。そのほうが「いつか褒めさせてみせる」と思えます。私にモテても困るだろうけどさ! 



‥‥何を書いておるのやら。



せっかくですので簡単にお返事させて頂きます。

ロクに知識も「現実」も知らないくせに「空気」だけはよく知っているという、どうしようもないこの自分の立ち位置からすれば、そもそもうまく受け取れる本ではなかったのだ。


それはどちらかというと、私の書き方の問題になるのではないかと思います。
もちろん読者すべてが「うまく受け取れる本」など書けませんが、umetenさんのブログから拝見する問題意識には共有できる部分が多いと思っていましたので(だから本をお送りしました)、この本においての私の意見ももしかしたら読み取ってもらえるかもしれないと、書き方の不親切さを棚に上げて勝手に期待していたところはありました。
少なくともあの書評は、小飼弾さんの書評よりずっと鋭くレベルが高いと感じました(小飼さんには悪いですが)。

あえて、その立場から新たに問題を指摘するなら、「少しアートに興味(や疑問)をもっているだけの人」をターゲットとして想定している割には、そのターゲットに決定的に不足している「専門家には今更な話」を割愛するという奇妙な二面作戦が、どっちつかずの印象となってあいまいさを形作っていたのではないか、ということがやはり気になった。「誰に読ませたいのか」が戦略的には明確になっているのに、戦術的に明確になっていない、とでも言うべきか。


「大文字も小文字も」と思っていました。ターゲットを広く取ることで、全体として「どっちつかず」になっているということだと思います(「素人」の人から、アーティストをやめる下りのアートについての説明は難しかったと言われました)。

が、しかし、「自由」とか「自然」とかいう<アート的な振る舞い>=「価値中立性」という、目くらまし、ごまかしがあるがために、知識=歴史=権威なんてものはなくても大丈夫なものというイメージが権威の側から提示されることが常態化し、その流れの内に『アーティスト症候群』もあったのではないのか。


歴史的意識は必須だと思っているのですが、それはこの本では主に「自分語り」のところでしか書いていません。だからこないだの書評で「とりあえずの批判的印象すら、読み終わった後にはポストモダン的に相対化されてしまうのだから」と書かれたのですね。
「芸能人アーティスト」の章、「オンリーワン」という言葉の問題については、やはりわかりやすさや「キャッチー」に流れた嫌いはあります(ちなみに「芸能人アーティスト」についてはアーティスト批判ではなく、受容者の心理分析をもっとやったほうがよかったのではないかとの意見を、近しい人から頂いています)。

改めて、著者個人の「降りる」ことで確立した信念から読み解けるものは、アートという言葉が「使えない」こと。そして、個人的心情のゆらぎが源流にあること。


なにをか個人的心情がネックになっているのだとすれば、それを「個性への病」という言葉で表現したい。


これは、umetenさん自身のことでしょうか。
「個性への病」はアーティストの存在様式に近いものですね。
アートをやめた私の中にも依然としてそれはくすぶっているかもしれません。


●追記(5/11)
最後の「個人的心情のゆらぎ」とは私のことを指していたのだろうか。情報圧縮率が高いので読み取れない‥‥。
銀の弾丸」の意味を知らなかった。調べてわかった。芸術、アートは(も)相対化の歴史だから、すぐ隣からの言葉では「銀の弾丸」にはならない。たぶんそれはずっと遠いところから飛んでくる‥‥。