「画用紙がこわい」 - 三次元から二次元へのアクロバット

 主観的奥行きが「代理」しているのは、実は客観的奥行きではありません。「客観的奥行きを代理している」ものとして振舞うことにより、世界の統合を表象代理しているのです。手紙は宛先に届きます。誰の手紙がどこに届くかという以上に、郵便が機能していること、「郵便そのもの」という手紙がわたしの元に静かに返送されてくるのです。
奥行きの不安 - ish


離人症統合失調症(以前は分裂症と言った)の人が感じる、奥行きのないバラバラの世界。客観的奥行きと主観的奥行きについての考察がとても興味深い。
「モノが統合された一つの物質であることを支えている感覚」が失われた人の不安は実感としてはわからないが、「風景なんて本当はバラバラで、何のまとまりもない。奥行きもフィクションにすぎない。ただ、一つ一つの色や形の認識だけがグロテスクにはっきりと見える。見えるけれど、生気がない」という分裂的な世界の描写を読んでいると、それが実は世界の"ほんとうの姿"(もちろんそれを知ることはない)ではないだろうかと思えてきたりするので不思議だ(分裂症と「分裂症的」なるものについては、以前やはりishさんの記事に触発されてこちらに書いた)。


奥行きや立体感についてよく言われるのは、アカデミックな美術教育の場である。三次元の対象を二次元上にリアルに再現しようとする時、奥行き、立体感の表現が必要となる。
見ているものを克明に描写すれば立体感が出るかと言うと、もちろんそうではない。初心者の場合に顕著だが、対象の細部の一つ一つを思い切り凝視して、思い切りきちんと描こうとした結果、手前も奥もすべてのところにピントが合ってしまった平板な絵になる。どこもかしこも克明に描写しきろうという情熱が、かえって足かせなのだ。


仕事で行っているデザイン専門学校でも、一年生全員にデッサンの授業が課せられている。
「これだけ丁寧に細かく描いているのに、なんかバラバラでぺったんこになってしまう」と言う学生に、「奥行きや立体感は見てちゃんと感じているはずなんだから、見えているように描け」などと言っても無理だ。モノを凝視し過ぎた彼は「いろんなものが見えてきて、奥行きがあるのかどうかもよくわからなくなった」と呟く。
奥行きや立体感を感じていると錯覚できるのは、経験的にそれを「知っている」からだ。知っているのは脳である。脳には「モノは統合されている」「世界はバラバラではない」というお約束=信頼がインプットされている。それは改めて意識化できるようなものではない。
「知っている」ことを知ることができず、どう描いたら「今、自分が見えているように」なるのかと悩んで、学生の手は止まってしまう。


これが、三次元の物を三次元に再現する場合なら、まだ話は簡単だ。そこに存在している対象の質量とバランスを、とりあえずそのまま忠実に粘土の塊に置き換えればいい。「彫刻」として良いかどうかは別として、一応モノとしての形状は近くなる。
興味深いことに、写真を元に絵を描くという課題では、学生達は案外楽そうだった。目の前の人や風景を見て描く(三次元→二次元)より、人や風景の写真を見て描く(二次元→二次元)方が難しくないのだ。
三次元を、一つ次元を落として二次元に再現する時に、大変になる。


モチーフ台の上に、壜とか立方体とかリンゴとかいくつかの物が置かれている。別に「大変」な情景ではない、見ている分には。それを、尖った鉛筆で白い紙に、あたかもそこに空間や奥行きがあるかのように描けと言われる。
真っ白な画用紙の平らさ、すべらかさ。無表情で徹底的に均質な二次元平面が、目の前に広がっている。視線が弾かれどこにも焦点が絞れない。それはほとんど「壁」だ。鉛筆5、6本で、そのとりつくしまもない白い「壁」と闘わねばならないのだ。奥行きのある空間に見せかけるために。
輪郭を描いてちょっと陰影をつけたくらいでは、「壁」はびくともしない。頑張って描き込んでも、少し離れて見るとぺったんこだ。描いたところより、空間であるべき余白の地のほうが、よほど「強く」見える。描いても描いても紙の二次元性に負ける。だんだん画用紙に嘲笑されているような気分になってくる。


真っ白な四角い紙が、デッサン初心者の学生にどれだけ心理的なプレッシャーを与えるものか、最初想像がつかなかった。
ある時学生が「描き出す前の画用紙って、なんかこわい」と言っているのを聞いて、人間にとって二次元は三次元より手強いのだと改めて思った。私達は二次元ではなく三次元に生きているのだから、当然と言えば当然だ。
そう言えば、「二次元に生息している虫がいたとして、その虫に三次元とは何かを教えようとしても無駄」という小咄を読んだことがあったが、どこでだっただろうか。


結局、学校では手っ取り早く「騙しのテクニック」を教える。
手前を克明に書いたら背後はその7割の描写で押さえるとか、物の側面や回り込み部分の彩度を落とすとかいったこと。こうした技法は、いかにもそこに奥行きがあるかのように見せ、紙の二次元性を忘れさせるのに必要な詐術だ。
そもそも三次元世界を二次元上に再現する(再現的に演出する)というアクロバットは、その人の中でほとんど世界をまるごと一つ作り直すに等しい。けれども、違和感なく「自然」に見える絵とは、すべてをバカ正直に写し取ったものではなく作為の塊だということを知って、学生は画用紙に向かうのを怖れなくなる。


ルネサンス期に発明されたパースペクティブは、中世までの美術に見られた「神の視点」を、科学的な「人間の視点」へと移行させたものだった。それ以降、キリスト教の神様の目によって構築された世界は、絵画表現からなくなった。
でも、神様は依然としている。それは「人間の視点」の中に遍在し、世界を統合している。統合されていることを信じて私達は普通にモノを見、生活していける。
「見えているモノを知っているように(信じているように)」描くために考案されたさまざまなリアリズムの詐術は、「モノは統合されている」「世界はバラバラではない」というお約束=信頼と共犯的に手を結び、それを補強しているのだ。


細部がバラバラだった画面に何とかまとまりをつけ、統一的な奥行き感が出せるようになった学生の後ろに立って、「神が降臨したね」と私は言う。「うまいこと騙せるようになったね」と。鉛筆をサクサク動かしながら「騙すコツがわかった」と彼は答える。