アートの幻想 --- 1. 資本主義カルチャーとしてのアート

10、デュシャン
現代芸術ってやったもの勝ちであることに早々に気づき、かつそれを自虐的に利用して「やったもの勝ち」の領域に堕すことの無かった奇才。以後の芸術家は、「美術史は第一世界大戦で終了しました」と言って憚らない自分の目から見れば、美術史が第一次世界大戦で終わらないことへの数少ない反証。
ちなみに、ポロックと悩んだ。でもポロックのやったことは、要素的な意味でピカソに吸収されうるな、と。そして、前述したようにそれはセザンヌに内包されて、結局セザンヌが始祖なんじゃないかと。ウォーホル?私はポップアートをアートと認めていないのであしからず。ポロック、ウォーホルへと続く現代芸術評価って、発展史観によって「作られた評価」にしか思えない。


nix in desertis:偉大なる画家十選より


現代アートはやったもの勝ち。美術史は第一次世界大戦で終了。それ以降のアートは発展史観による評価に依存。いやまあだいたいその通りですね(笑)。
デュシャン以降も作り続けるという正当性をどう確保したらいいかで、現代のアーティストは頭を悩ませ続ける」と会田誠は言った(参照)。好きだから作るんだという素朴な地点にはもう立てないことを自覚すればするほどそうなるだろう。
その延長線上で私は7年前の2003年にアーティストをやめた。


やめるに当たって書いた、これとは別のとても長い文章があるのを思い出した。テキストサイトに掲載していたが今はそのサイト自体がないので、アートについての自分の意見を初めてまとめて文章化したものとして再掲しておく。
自分自身のアート活動の来歴と変遷についての述懐は作品を知らない人には無意味だから省き、その他冗長なところもカットしたが、それでも長い(当時の私には必要な長さだったけど)ので4日に分ける。*1
1. 資本主義カルチャーとしてのアート
2. 消費としての芸術体験
3. 忘却による反復
4. 受動性のアート

1.資本主義カルチャーとしてのアート

娯楽とは「慰め」である。過酷な現実を忘れさせてくれるものであり、生活を彩ってくれるものでもあり、人間にとって一定限必要なものだ。人を厳しい現実に直面させるものは、娯楽ではない。哲学、思想は娯楽ではないが、そこから得た知識を実際的に活用することなく知的ファッションとしてまとうだけなら、娯楽になるだろう。
芸術はもともとヨーロッパ貴族の娯楽であり、同時に所有者の富と社会的地位の象徴でもあった。それが近代に資本家や上流階級のための高級娯楽になり、さらにポピュラー化した。元貴族の中の目利き、ハイソサエティディレッタントが、そのままアートオタクになったのだ。
ここで言う「アート」は、近代市民社会成立以降、貴族社会の芸術遺産を受け継ぎながら新たに創出されたモダン〜コンテンポラリーアート(近〜現代美術)のことを指す。それは、学校制度と美術館制度の完成によって「アートは誰にでも開かれている」という啓蒙の言説に支えられつつ、一定以上の富裕層及び知的階層中心の市場を形成することで「アートはブランド商品である」という特殊性も確保してきた。


あらゆる文化的娯楽がそうであるように、アートもまた受け手の「趣味判断」に委ねられるものである。知覚に直に訴える刺激や快楽。作品に詰め込まれたさまざまな情報を読み解く愉しみ。ものを見ることについての新鮮な視点の発見。 そうした知的興奮や快楽や感動を得るという点において、アートは、他の様々な文化的娯楽とほとんど同種のものだ。アートの受容層は他の様々なカルチャーの受容層と重なっているし、それらカルチャーの細分化された趣味、感覚の世界は、アートにも反映されている。
娯楽ではなくカルチャーと言うとやや文化の香りがあるが、その働きは娯楽と同じである。それは大きく見て何らかの(不快も含んだ上での)「快」を与えるものであり、何らかの「受容体験」に留まるものということだ。
もっともそこから刺激を得てまた別の創作が始まることもあるだろうし、それがやがては「知的文化遺産」になるかもしれない。しかしそれは誰のための、何のための遺産だろうか。それらを享受できる環境にいる人の慰めのための遺産なら、それはやはり娯楽である。


そもそもアートはその成立の起源において、純然たる資本主義カルチャーだった。それは近代の始まりに、ポピュラーカルチャーとして運命づけられていた。
あらゆる位相が絶え間ない差異の創出、剰余価値の生産、競争へと駆り立てられる資本主義的生産様式。その差異の創出はアートにおいてはまず、モダニズムの「進化・進歩」という理念を担うアヴァンギャルドの「信念」によって駆動されてきた。
そして「前衛」が解体されていく中で、アートを純化、自律させていく動き(セザンヌキュビスム、抽象表現主義、ミニマル・アートetc)は最終的に絵画でも彫刻でもない「物体」としか言えないものに行き着き、それをアートであると証明する根拠の不在に直面した。一方、アートを革新、拡大させていく動き(ダダ、シュルレアリスムポップアートコンセプチュアルアートetc)はあらゆるジャンルを取り込んでいった結果、それをアートであると確定する領域の不在に直面した。
しかしアートの根拠も領域の確定も失われたところで語られた「芸術の終焉」は、いつのまにかすべてを「多様性」として受容しつつ、ひたすら差異を追い求めるという底の抜けたかたちに反転した。*2
アートの受容のされ方は今や、他のポピュラーカルチャーとほとんど違いがない。アートがもともと「そういうもの」であるなら、それが文化産業となりアーティストを含めたさまざまな人がそこで利潤を追求するのもまた当然だろう。



とすると、資本主義カルチャーの一つに過ぎないアートがなぜ国家によって制度で守られ、助成金を受け優遇されているのだろうか。日本においては美術と音楽のみが、学校制度の中で明確に位置づけられている。数多くの公立美術館があり、国立劇場はあるが国立映画館はない。これは不公平だということになるだろう。不公平をなくすには、目に見える制度を撤廃する必要がある。まず国公立芸術系大学の廃止、または民営化をせねばならない。
更に徹底するなら、すべての芸術系大学はカルチャー専門学校になるしかないだろう。そこには、美術、音楽、演劇、映画、ダンス、パフォーマンス、芸能、ゲーム、マンガ、文芸、各種クラフト、放送通信、各種コーディネーター、マネジメント、プロデューサー養成などが含まれる。
専門学校だから入試はなく、それぞれの分野での戦術と戦略が教えられる。アートならユースカルチャー受容層向けのもの、知的エリート向けのもの、クロウト好みのものと、学生の資質に合わせてきめ細かい指導がなされる。
次は、国公立美術館(および劇場)の民間への払い下げだ。国立の美術館をまるごと買い取って運営するほどの資産も能力も日本の法人になければ、収蔵作品をサザビーズにでも売りに出す。世界にはとほうもない金持ちがいるのだから、国宝級の芸術作品でも何でもポンと買ってくれるだろう。そうして得た何十億という財源を、教育や福祉政策に充てたらどれだけの人が救われるだろうか。


こうして、芸術に割かれていた莫大な国家予算は殆どカットされ、あらゆる公的機関は民間に依託される。芸術の制度は実質的に消滅し、芸術にとりついていた亡霊のような幻想は解体する。そして、現代の消費者を満足させる質の安定したアートが世の中に出回っていく。「ゴミ」も極端に減るはずだし、制度内で得た既得権益にしがみつくアート関係者も姿を消していくだろう。
アートを資本主義社会のカルチャーのひとつと看做し切れば、こうならねばならないはずだ。アートの娯楽産業化はおそらく止めようのないことだが、さまざまなジャンルの中で競争力を失えば消えていくしかない。これまで続いているのは娯楽とは異なる「芸術」という特別な位置をあらかじめ与えられ、保護されてきたからに過ぎないかもしれないのだ。




‥‥‥いや、アートは本当はそんなものではない、という声がする。
すぐれた作品のもたらす経験は、安易な感動や共感を誘うものでも、口当たりよく消費されるようなものでもないのだと。アートはどのような娯楽文化にも増して大胆かつ根源的なやり方でもって人に働きかけ、人を打ちのめすものだと。
たしかにそれこそが、かつて私を強く惹きつけたアート固有の質と言われるものだった。


に続く)

*1:ちなみに『アーティスト症候群』(2008、明治書院)は、この文章を読んだ編集者に「よくわからないところもあるので、もっと噛み砕いて一般向けに書いてみては」と言われて書いた。これよりは若干ニュートラルな視点になっているが、基本的な考え方は変わっていない。

*2:このあたりのまとめ方は、小冊子『現代美術の最前線』(画廊パレルゴン2、1984)収録の「「美術」の解体=懐胎、あるいはポリプラクティス」(藤井雅美)に依っている。