第十六師団の山中貞雄

『映画監督 山中貞雄』(加藤泰 著、(株)キネマ旬報社、1985)を読み終えた。
山中貞雄の甥でやはり映画監督であった著者が、膨大な資料収集と関係者へのインタビューを経て、8年がかりで書き上げた労作である。山中貞雄論の中でも、映画に入れ込んだ一人の若者としての山中貞雄と、彼を取り巻く1920〜30年代の「カツドウ屋」たちの熱気に満ちた交友関係を、ここまで生き生きと描いたものはおそらく他にはないだろう。*1


山中貞雄が映画人として生きた時代は、恐慌と戦争の時代だった。
1928(昭和3)年に治安維持法の改悪で思想言論の自由が制限され始め、企業の倒産や首切りが相次いで昭和恐慌が厳しさを増す中、1929(昭和4)年10月のニューヨーク株式市場暴落をきっかけに世界的大恐慌時代に突入する。小津安二郎の『大学は出たけれど』が公開されたのはこの頃である。1930(昭和5)年に浜口雄幸首相が東京駅で右翼に暗殺されるという事件が起き、1931(昭和6)年に満州事変が勃発している。
山中貞雄は1937(昭和12)年に徴兵され、日中戦争の最中、28歳と10ヶ月で戦病死した。
夭折の天才映画監督としてだけ山中貞雄を認識していた私だが、この本を通して、一人の映画オタク青年と戦争との関係も浮かび上がってくるように思われた。本の記述に基づいて素描してみたい。



18歳で映画界入りして以降11年の間に、山中貞雄は54本のシナリオ(鳴滝組*2作品のうち、参加のわかっている14本を含む)と23本の監督作品(共同監督作品を含む)を世に送っている。べらぼうな数だが、制作されていた映画の本数がそれだけ多かったということである。今で言うと単発TVドラマを制作するのに近いノリだったのだろうと思われる。現在読むことのできるシナリオは12本、プリントがほぼ完全に近いかたちで残っているのは3本のみ。
山中貞雄は、それまでチャンバラ場面が中心の単に痛快な「男のドラマ」であった時代劇において、刺身のツマ的存在だった女性に重要な役を振り、確立されていた古典的ヒーロー像をぶち壊し、最後は勧善懲悪で締める鉄則を覆すといった数々の冒険を行った。テレビで見かける捕物帳や水戸黄門、刑事物などは全て「体制側」を主人公にしているが、山中貞雄が拘って描いたのはアウトローと市井の人々だった。
そういう物語が、最近の下手な邦画にありがちのくどくどした心理描写や鬱陶しいクローズアップの多用や意味ありげな間合いなしに、テンポ良く進んでいく。当時「チョンマゲを結った現代劇」と言われた彼の作品は、今見ても非常にみずみずしくモダンである。


この本から想像される山中青年は毎日、食事と睡眠以外は脚本を書いているか、映画や芝居を見ているか、本を読んでいるか、仲間たちと飲んで映画論を戦わせているか、映画を撮っているかである。恋人もおらず、女を買いに行く習慣もなかったようだ。
その間に映画の現場から離れたのは、1929(昭和4)年の20歳の時に徴兵検査を受け、1年志願の幹部候補生として福知山の歩兵第二十連隊に入隊した1年である。通常なら期間は2年だが、1年分の食費などの服役費用240円を前払いで収めれば1年で出られ、しかも帰る時は必ず下士官で帰れることになっていたらしい。
時代劇スター嵐寛寿郎のプロダクションのシナリオライター兼助監督として、どっぷり映画漬けだった山中貞雄にとって、2年のブランクは大きい。だが当時の旧制中学卒(今の高卒に当たる。まだ尋常小学校卒が多い時代)の初任給が月30円の時代に、240円という大金は彼にはない。そこで嵐寛寿郎が年内の主演映画のシナリオを全部任せてくれることになり、山中貞雄は遮二無二書いて何とか費用を作ったという。


入隊中の山中貞雄の様子を、彼と親しくなった中西幾太郎という人が書き残している。

[前略]『君は映画に関係していられたのですか』と他人行儀な口のきき方で尋ねて見た。『ハア、そうです。寛プロの本を書いています』右手で(タバコを)支えつーっと紫煙吹き出し乍らそう答えてくれた。シネマニアと自惚れていた私は『お仲間』があると非常に嬉しく頼もしく思った事だ。これがキッカケで爾後一年間起居苦楽を共にし、最も肝胆相照らして?来たのであるが、あのものぐさなユーモラスな人となりが厳格なる兵営生活を如何程和らかに明るくして呉れた事か。」
(p.103〜104)

「彼は絶えず思索に耽っていた。自習時間、延燈時間(幹候生は消灯後も十一時迄延燈を許可されていた)、行軍間に本を案じ其れに終始していた。
 又、光学、力学等と私達の読んでも判らぬ代物を耽読していた。そして口癖に『幾さん、見ていてくれ、除隊の暁はきっと清瀬英次郎監督位になって見せる』なんて嘯いていた。[以下略]
(p.106)

一年の間に4度の外泊の機会が与えられており、そこで撮影所に来て仕事の依頼を受け、訓練の暇を見て書いて次の外泊時に渡しに行くというかたちで、入隊中に計4本のシナリオを仕上げている。行軍の間もシナリオのことばかり考えていたのだろう。それに集中し過ぎてヘマをし、教官に油を搾られるということもちょくちょくあったらしい。訓練兵としての山中貞雄は決して出来の良い方ではなかったようだ。
幹部候補生は在営中の試験で合格すると少尉になれた。合格率85%のその試験に山中貞雄は落ちた。危険思想の要注意人物のブラックリストに活動写真のタネ本を書く者も入っていたのではないかという説があるらしいが、「もう、伍長で結構です、一日でも早く活動写真に戻りたい」という気持ちだったのではないかと、著者の加藤泰は書いている。




昭和9年1月 蒲田撮影所で小津安二郎


20代の初めにして既に超多忙なシナリオライターとなった山中貞雄は、1932(昭和7)年、若干23歳で第一回監督作品『磯の源太・抱寝の長脇差』を発表し、以降次々とキネ旬ベストテン入りする作品を撮って注目を集める。
京都の撮影所をホームベースとしていたが、後にしばしば上京し友人を増やした。6歳上の小津安二郎と1934(昭和9)年に出会い、翌年には歌舞伎から出た若い演劇集団だった前進座と出会い、親交を深めている。顎の長い一目見たら忘れられない顔で、悪戯好きだが照れ屋で鷹揚で友情に篤い人柄は、皆に愛されたようだ。
山中貞雄とよく飲み歩いた前進座中村翫右衛門が、ある晩二人で歩いていてふと「今一番優れた俳優は誰だと思いますか」と尋ねた時、「君や」とボソッと言われ、思わず「え?」と訊き返すとまた前を向いたまま「君や」とボソッと言われ、とてつもなく嬉しかったというエピソードを『芸話 おもちゃ箱』というエッセイ集に書いている*3山中貞雄は翫右衛門の演技を「神さま」と評価していたらしい。前進座の変に時代劇っぽくない自然な台詞回しは、たしかに山中貞雄の求めるところとぴったり合ったのだろう。
日本が中国との戦争を始めていなければ、少なくともそういう戦争に駆り出されて死ぬようなことがなければ、山中貞雄は戦後、一才年下の黒澤明と比べられる世界的な名匠となっていただろう。‥‥ということはよく言われる。


1937(昭和12)年7月7日に起こった盧溝橋事件に端を発し、日中間の戦争は拡大していった。8月25日、『人情紙風船』の封切りの日に、山中貞雄は陸軍歩兵伍長として招集を受ける。
召集令状が来た時、山中貞雄の傍にいたのは中村翫右衛門と鳴滝組の滝沢英輔監督だった。赤紙が助監督から手渡された時の様子を、翫右衛門がやはり前述の本に書いている。

山中さんの顔が、さぁッと青くなりました。ちょっと無言が三人の間にありました。私も全く驚いて、残念な気持ちでいっぱいになりました。「これが最後の映画じゃ、死にきれんな」と、ポツリと山中さんが言いました。私は胸が詰まるようになって、「そんなばかなこと‥‥お土産を持って帰って、良い映画を作るように待ってますよ」と言うと、滝沢さんも心を込めて激励しました。山中さんは黙って歩き出しました。
(『芸話 おもちゃ箱』(朝日選書、p.247)


9月初め頃、山中貞雄はまだ待機中だった京都・伏見の連隊の兵舎から、当時所属していたP・C・L 映画製作所(後の東宝)の監督部、助監督部宛に手紙を送っている。
それによると、第十六師団は人員過剰で、試験の如きものに落第し一時追い返されそうになったが、急にまた第三中隊に編入された。一体どういうことだったのか? 戦後に書かれたP・C・L の山本嘉次郎監督のエッセイの一部が引用されている。

「『聯隊中に、彼の顎にとどくような長い顎紐のついた帽子がないので、即日帰郷になったそうだ』
 そんな噂が伝えられたが、山中はとうとう帰って来なかった。
 事実は、彼は冗員で一旦帰されたのである、その夜は、同じく帰された連中と一緒に、聯隊近くの宿に泊った。その夜半、同室の一人が自殺を企てて大騒ぎになった。
 憲兵が飛んで来て、事情を聞くと、ハネられたのが口惜しくて、のめのめと生きては家に帰れないとその男が言った。
『えらい、立派なものだ』
 と憲兵は賞めた。すると他の連中が、われもわれもと入隊を申し出た。
『それ程までに望むのならば‥‥』
 憲兵の特別の計らいで、一同は翌日、再び営門をくぐったのである。山中ひとり、私はそうではありませんとは言えなかったのだ。  
 それを聞いて、私は、ゾオーッと肌に粟立つ思いがした。」
(p.305〜306)

これが事実なら、憲兵と軍国青年を気取りたい若者たちの馬鹿げたプライド(そして「戦争に行きたくない」とは口にできない当時の抑圧的な空気)のせいで、山中貞雄の運命はなし崩し的に決まったことになる。試験に落ちて内心ホッとして、「これで活動写真に戻れる」と思っていたであろう彼の心中はどんなだっただろうか。


● 


10月7日、神戸港から中国大陸に向けて出港。丁度大阪で公演のあった前進座の役者たちが、見送りに駆けつけた。
山中は「支那事變 従軍記」と記したノートにメモやスケッチを残している。7日の日記には「京都の駅前でバンザイを叫んだ人と神戸の街頭でバンザイを叫ぶ人と顔色が違う/叫ぶ人の悲劇 叫ばれる奴の悲劇/喜劇かもしれない」とある。
11月、第十六師団は上海派遣軍に編入され、弾薬輸送隊援護を勤めた後、戦闘部隊として南京攻略戦に参加、12月9日、南京城外の紫金山付近の戦闘で格闘戦を体験する。
山中貞雄が所属していた第十六師団(悪名高い中島部隊)が南京攻略に参加していたのは、有名な話である*4。しかし私は、めちゃくちゃ笑えてしんみり切ない『丹下左膳餘話 百萬両の壷』や、ろくでなし達が女子供のために体を張る『河内山宗春』や、世間の無情と人間の弱さと侠気を交錯させた『人情紙風船』を撮った若い映画監督と、あの南京大虐殺との結び付きを、まったく非現実的なものに感じていた。
だからそれまでは「へぇ〜」などと感心しながら興味深く進んできた読書が、山中貞雄の中国での行軍から南京事件のあたりにさしかかった時、私は読むのがつらくなった。


中国での山中について書き残しているのは、元陸軍大尉白善二男(当時は少尉で、南京攻略戦で負傷した大原中尉に替わって中隊長となった。山中の直属上司に当たる)という人である。彼は加藤泰の求めに応じて書いた手記で、山中伍長について次のように記している。

「軍人山中貞雄は少し変った存在であった。とは言っても何も木に土の混じった様な違和感や不調和があったのでは無い。又インテリによくある批判的な傍観者的なエラバリや嫌味や臭もなく、勤務を命ずれば普通に務めるし上官同僚に接する態度も変った所も無く、何よりも第四隊第三小隊の分隊長として部下の掌握にも何の不都合も見られなかった。
 だが何となく変な感じがある。
 私なりの考えで行けば、風さいにもよるだろうが、戦場にある兵隊として燃え方の不足がコンナ風に見えるのかも知れないと思った。明日の保証の無い戦場の兵士の常として或る時は無闇にハリキリ、又或る時はヤケ気味に騒ぎ廻るのであるが、彼は常に平静である、ヒッソリと片隅でニコニコ笑い乍ら眺めている。平服の軍人、緊張と躍動の軍隊の中にフラリと紛れ込んだ和服姿の男、そんな感じであった。
 併し時折、戦場の焼野原の片隅に立ってジーッと遠くを眺めるような目付で長時間立ちすくんでいる事があった、殊に薄暮の頃など次第に深まり行く暮色の中で長い影を落とし乍ら両手をズボンの中に入れ前かがみにたたずんでいる彼の後姿には何か近寄り難いものを感じさせた。」
(p.309〜310)

二十歳の頃の訓練兵、山中貞雄を観察していた中西幾太郎の描写と、どこか通じるものがある。戦場でも映画のことばかり考えていたのだろう。山中の従軍記ノートには、周囲の兵隊たちを観察し、ギャグに使えそうな言行をスケッチしたものが書き留められていたという。


南京陥落は12月13日である。白善中隊長の手記によれば、中隊は上海から激戦を重ねながら312キロを進軍して、ようやく8日夕方に南京郊外に辿り着き、9日から激しい銃撃戦が始まっている。
12日、紫金山の一角から、燃え上がり砲煙の立ちこめる南京城内を眼下に、逆襲してきた中国軍と大乱戦になり、一段落ついて「第三小隊大丈夫か」と白善中隊長が声をかけると、煙の中から山中分隊長が飛び出してきた。

[前略]
『オオ、山中、大丈夫か!』
叫んだ私に
『大丈夫です、四、五名負傷した様です』とどなる様に大声で答えた彼の姿は正に勇気リンリンたるものがあった。一寸意外の気がして思わず彼の姿をもう一度見直して見た。
 上衣の胸元を大きくはだけ、汗と埃にまみれた髭面に、返り血らしいものがベットリこびりついていた。汚れた軍服の所々のカギ裂きらしい所から白い綿がはみ出していた。横にヒン曲った鉄帽の掩布の頂部付近の焼けこげからホンノリと煙が立ち上っているのが印象的であった。」
(p.316〜317)



第十六師団は15日に南京入りするが、翌日、中隊本部は南京城外の新塘市に置かれ、山中貞雄伍長たちは更に、南京から九里の句容に駐屯することになる。南京に着いてすぐ戦闘を開始し、終わるとまたすぐ移動しているのだ。
では、南京市占領の際、約二ヶ月に渡って行われたという中国軍捕虜、脱走兵、便衣兵、一般人に対する殺戮に、山中貞雄は参加していないと見ていいのだろうか、それともやはり関わったのだろうか。まさか山中貞雄も殺気立って一般人の殺害やレイプをしたのだろうか‥‥。もちろん本には、そのあたりのことは何も書かれていない。



本の口絵に載っている中国での山中貞雄のスナップ(本文中には中国人の少年たちと木陰で寛いでいる写真も)。


この、中国人の少年と同じポーズを取りながら(少年が山中を真似ているのかも)笑っている映画青年の日本兵が、戦闘中に敵兵を殺すのはともかく、捕虜を日本刀で試し切りしたり中国人女性をレイプ、虐殺したとは、私にはどうしても思えない。思いたくないという方が正確か。
別に映画監督だった一人の兵士が残虐行為をしていようといなかろうと、南京大虐殺が行われたという事実が変わるわけではない。なのに、なんとかして山中貞雄だけは"無罪"にしたい自分がいる。こういうのをナイーブ過ぎる、いや御都合主義と言うのだろうか。
句容から日本の映画仲間に宛てて書かれた手紙で、南京攻略戦については「南京に入城する迄の一ヶ月余は、いや、もう大変なもンでした」。それ以外では、煙草、甘いもの、酒の話、戦場の弾丸の音の話などで、半年も仕事と離れているとじっとしていられない、早く帰りたいです、とある。著者の加藤泰は特に感想を交えず、淡々と資料を紹介しそこからわかる事実関係を記述しているのみである。


年明けにやはり中国に送られていた小津安二郎伍長が、山中貞雄を訪ねている。あまりゆっくり語り合う時間はなかったようだが、帰ったら戦争の映画を作るかと山中は小津に尋ね、小津が「わからない。君は?」と言うと、笑って「わからない。だがギャグは大分貯まった」と答えたという。
1月下旬に中隊は上海に戻り、その後は戦闘を繰り返しながら中国各地を転々としている。4月18日、徐州会戦を前に、山中貞雄はノートに遺書をしたためた。

    遺書
○ 陸軍歩兵伍長としてはこれ男子の本懐、申し置く事ナシ。
日本映画監督協会の一員として一言。
「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。
 負け惜しみに非ず。
○ 保険の金はそっくり井上金太郎氏にお渡しする事。
○ 井上さんにはとことん迄御世話をかけて済まんと思います。
 僕のもろもろの借金を(P・C・Lからなるせからの)払って下さい。
 多分足りません。そこ、うまく誤摩化しといて戴きます。
○ 万一余りましたら、協会と前進座で分けて下さい。
○ 最後に、先輩友人諸子に一言
 よい映画をこさえて下さい。                  以上。
  昭和十三年四月十八日
                               山中貞雄
(p.323)


その後も戦闘と行軍の日々を送り、6月から7月にかけての約一ヶ月、黄河の決壊による濁水と豪雨の中で、山中貞雄たちは褌一丁で這いずり回るような戦いを強いられた。
7月19日の朝、中隊本部の白善中隊長の元に、戦友に支えられながら山中貞雄はげっそりと憔悴しきった姿を現し、入院を自己申告する。急性腸炎だった。
ベッドでも近況を手紙に書き綴っている。戦争の感想については「矢ッ張り戦争が済んで一年くらい経過してからでないと言えるもんで無いと言う事を沁々思う」とある。仮に戦争への恨みつらみを書きたくても、検閲されて墨で消されることはわかっているので、何も書かなかったのかもしれない。それ以外ではやはり食べ物の話と、撮ってみたい映画の話などを書いている。
病状は良くならず、激しい下痢に苦しみ続け、9月17日、河南省開封市の野戦病院で亡くなった。
山中貞雄がもし生き延びていたら、ノートに書き貯めた兵隊のギャグを元に、どんな戦争映画を作っただろう。


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何度観ても飽きません。


こちらもお薦め。


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西山洋市トーク「役に立つ山中貞雄」/ラピュタ阿佐ヶ谷で、現存する3作品について非常に鮮やかな分析がされている。ネット上で見かけた山中貞雄論の中では一番面白かった。山中貞雄が最後まで描ききれなかったものを、戦後の黒澤明が描いたという視点もなるほど。

*1:ただ、著者の癖なのか「〜のである」文体が続くのでその点だけがちょっと読みづらい。編集者が全然手を入れなかったのかしら。追記:『評伝 山中貞雄』(千葉伸夫、平凡社ライブラリー)も丹念に資料にあたっており大変読みでがある。読みやすさとしてはこちら、同時代を生きた人の感覚が息づいているのは前者か。

*2:京都の鳴滝というところに居住していた若い脚本家、監督集団。「梶原金八」という共同ペンネームで多くのシナリオを書いている。

*3:やりとりを読むとなんとなく山中貞雄の方が年長みたいな感じだが、実際は翫右衛門の方が8歳ほど上。

*4:正確には、第十六師団歩兵第九連隊の第一連隊第四中隊。その中隊の第三小隊の第二分隊長に任命されている。